東方不死死 第77章 「分岐点」


 幻想郷東部を中心に多くの人妖を巻き込んで大規模な戦争へと発展した今回の異変。
 結果的に藤原妹紅の想定した通りの結末で異変は解決されるわけであるが、現段階ではまだ異変の真っ最中にあり、山場を越えた兆しは見えたものの、最終的な結果がどの様な状態になるか分からない未確定要素の多い不安定な状況だった。

「妹紅は今頃あの光の向こうか・・・無事に戻ってこれればよいがのー・・・。」
 高い知名度を利用して、密かに異変の首謀者側に与して暗躍した永遠亭の妖兎因幡てゐは、その役目を終えて、桃色に染まった幻想郷の空を眺めながら、こっそりと迷いの竹林に戻り偽装の為とはいえひどい怪我を負った身体の回復に務めようとしていた。
 我が家とも言える永遠亭に直接戻らなかったのは、怪我を負わせた張本人の蓬莱山輝夜が一人留守番をしているからで、レイセンと永琳が居ない以上、暇を持て余すこの御姫様の面倒を見させられるのは明らかで、今は兎にも角にも身体を休めたかったてゐとしては、永遠亭に戻る選択肢は無かったわけである。
 深手を負わされ危うく祟り神になりかけたが、その苦労の甲斐あってか誰も偽装を見抜ける者はなく、永遠亭との不仲を信じ込ませる事に成功した。結果オーライだったので、怪我の件は水に流す器の大きいてゐである。
「妹紅、ちと隠れ家を借りるぞい。」
 昔はそれなりに立派な佇まいの家だったが、度重なる永遠亭との抗争に巻き込まれ、今では見るも無惨な廃材の掘っ立て小屋に成り下がってしまった妹紅の隠れ家。事情を知らない者がこれを見れば、ただのゴミの山に見えるだろう。
 人が住むにその役をなしていない小屋ではあるが、この地下に向こうの世界から持ち込んだ妖術使いの数々のお宝が保管されている重要施設で、てゐは妹紅に頼まれてそれらのお宝を守っており、唯一ここへ入る事を許されていたのである。この家が掘っ立て小屋になってしまった永遠亭との抗争後、不可侵条約が結ばれていたので、永遠亭の連中がここに来ることはまずない。この事は、妹紅だけではなくてゐにとっても絶好の隠れ家となることを意味していた。

 因幡てゐは小屋の裏手の壁の隙間から中に入り、地下室の入り口を塞ぐ古い布団を乗せた木箱によじ登ってそこに横になる。妹紅は冷たい地べたでも平気で寝れるが、てゐは柔らかい寝床がないと落ち着かない性分で、この毛布は妹紅の備品ではなくてゐが個人的に持ち込んだ私物である。
 てゐは、自分で整えた寝床に丸くなり、そこでふぅと一つため息をつくと、すぐに眠気が襲い瞼が重くなってくる。
「・・・。」
 うとうとしかけたその時だった。突然、板壁を挟んだすぐ外に何かがどさりと落ちる音がしたのである。
「!」
 竹林の中に無数にいるうさぎの感覚機能を利用した高い探知索敵能力を持つてゐは、何者かの突然の接近に驚愕した。
 てゐは、気配を悟られないように板張りの壁に背中を合わせ、隙間からそっと外の様子を伺う。
「(・・・ん?あれは!)」
 何度か見たことがあるが、あれは間違いなくスキマ、八雲紫の固有能力であるスキマが小屋の引き戸前に現れていたのである。
「(まずい・・・。)」
 てゐの背筋が凍る。八雲紫と聞いて前向きで楽しい事が起こると到底思えない。もしかしたら、妹紅との内通がばれて、吸血鬼レミリア・スカーレットの運命発動のタイミングを狂わせた事に対する報復が来たのではないかと身の危険を感じてしまう。
 外が覗ける壁の隙間から離れて小屋の隅に身を隠すてゐ。そのまま外に全神経を集中して、じっと息を潜めて居留守を装う。そして、この災厄が早く過ぎ去る事を念じる。
 しばらくそうしていると、外に弱々しい生き物の気配がひとつ、その場から動かずそのままそこに留まっているだけで、それ以上の変化が起こる気配が全くない。変だと思って周辺にいる一羽の野うさぎの視界を乗っ取り小屋を外から観察してみる。
「む?あれは・・・。」
 そこにスキマは既に無く、八雲紫やその他危険な気配も無かったが、引き戸の前にボロボロになった見たこともない妖怪が一人倒れているのを発見した。妖怪だとすぐに分かったのは背中に羽根が生えているのが見えたからである。
 妹紅が八雲紫のスキマを盗んだ事を知らないてゐは、何故あそこにスキマが開いたのか理解出来なかったが、八雲紫がこの妖怪を妹紅に託す為にここにスキマを開いたのではないかと前向きに考えてみる。しかしそれが仮に正解だとすると、この場所の正確な座標が八雲紫に知られている事を意味し、竹林にスキマが開かないという定説は覆る事になる。これは永遠亭にとって不利な状況ではないのかと頭を悩ますてゐ。
「まー考えてもしかたがないし、後で妹紅に聞けば良いのだ。」
 この案件は手に余る問題だと思った身の程を知るてゐは、今しなければならないのはこの妖怪をどうにかすることである。てゐは、妹紅が関わっていると判断し、危険はないと見て入った穴から出て表に回ってその妖怪に恐る恐る近づいた。
 何かと戦って盛大に負けての負傷だと直感的に分かる。そして、その相手は恐らく妹紅だろうと容易に想像が出来る。つい先日誰かさんに同じく大怪我を負わされ、その傷が完全に癒えていないてゐは、すぐにこの妖怪に共感と同情が芽生える。
 ここにこの妖怪を置いていった者の意図は読める。医療所である永遠亭に治療を頼むという意味で、永遠亭前に直接スキマを開かなかったのは、八雲紫が直接永遠亭に乗り込まない様にする妹紅の意図があった為だろう。今回八雲紫と永遠亭は密約を交わし味方同士となったわけだが、それはあくまでも今回だけの事で、今後関係がどう推移するかはわからない。永遠亭と藤原妹紅が手を組み、八雲紫と対決するという構図もないとはいえないので、その点を考慮に入れた今回のスキマなのだどうとてゐは納得することにした。
 レイセンや永琳は不在だが、一応その弟子を自負するてゐとしては応急処置くらいは出来るだろうと、周辺のウサギを人型に変化させ、怪我をしている妖怪を複数で担がせてそのまま永遠亭に向かった。

 永遠亭の居間。
「あーあ、退屈ねー。てゐ!てゐはまだ帰ってないの!ったく・・・。」
 月のお姫様、蓬莱山輝夜はペットの因幡の白兎として有名な因幡てゐを呼びつける。しかし、てゐの返事は返ってこない。でも、近くにはいそうなので何度も呼びつけてみる。
「悪かったわよ。でも、あーでもしないと皆信じなかったでしょ?実際あの写真で決定的になったようなものだし。」
 異変に際し、紅魔館と永遠亭が争うシナリオが用意されていたが、そのきっかけを作る為に永遠亭と因幡てゐとの間の不仲を演出する必要があり、暴力によって因幡てゐが離反するという段取りを講じ、その時負って見せるケガを偽装ではなく本物の重症にしてしまい、その実行犯がそれを喜々として行った輝夜なのである。その件があったので、輝夜はてゐから避けられていると思い、心から詫びるつもりなど毛頭なかったが、一先ず下手に出てみる。
「どうしたら許してくれるの?と言うか何で私がおべっか遣わなきゃいけないのよ。全く!早く出てきなさいよ!出てこないともっとひどい事になるわよ!」
 しかし、最後には本音が出ていまう。
 主従関係にある以上、てゐは輝夜に何をされても我慢しなければならないが、てゐとしては従属はしていても隷属しているつもりはないし、同じペットであるレイセンより格上として扱われている。輝夜はともかく、八意永琳からは一目置かれているのだ。
「おーい!姫!姫!早く来て!」
 その時、玄関の戸が勢いよく開く音がして、すぐに聞き慣れた因幡てゐの声が聞こえてきた。しかも、向こうからこちらの名前を呼んでいる。
 姫を呼びつけるとは何事かと憤る輝夜だが、怪我をさせた手前もあり、ここはおとなしく呼ばれようと重い腰を上げる。
 居間からそれなりの距離がある玄関までの長い廊下をゆっくりと向かう輝夜。何度かてゐに急かされるがその都度はいはいと応えて慌てず騒がずマイペースで歩く。
 医療所の出入り口も兼ねる玄関から入ると向かって右が診療室で、正面と左側に長く廊下が伸びる。左側の廊下が外庭に面した長い縁側になっており、それに沿って何十畳もある広い複数の客間の先に普段皆が顔を会わせて過ごす居間がある。
 輝夜は異変のただ中の桃色の空を時々立ち止まって目をやりながらてゐの元に向かう。いつも通りの輝夜の対応であるが、てゐは何度も何度も早く来いと叫んでいる様子から火急の用だと伺えるので、底意地悪く逆に歩みを遅らせる。
 ようやく玄関にたどり着いた輝夜は、てゐが連れてきたと思われる汚らしい妖怪を見て、あからさまに面倒臭そうな顔をする。
「何これ、何でこんなもの拾ってくるのよ。」
 その対応にムッとするてゐは、嫌みで返す。
「大怪我してるから、他人事と思えず連れてきたんだよ。」
 レイセンとは違い、普段から輝夜と毒気を含んだ舌戦を平気でやるてゐ。
「そうきたか。」
 てゐに対し若干後ろめたい気持ちがあった輝夜だが、そこは腐っても輝夜である。てゐの嫌みに更に嫌みで返す。
「で、何?自分でさすのは嫌だから私にトドメをさせっていうの?」
「ちがーう!」
 プンプンと真剣に怒り出すてゐをなだめすかす様に、玄関向かって右側の許可無く入れない診療室の戸を開けやる察しの良い輝夜。彼女はぐうたらではあるが、決して愚鈍ではない。
 戸を開けてもらったてゐはすぐに態度を代え、礼を言って僕の人型ウサギをつかって、見知らぬ妖怪を診療室のベッドに運び入れた。用事の済んだうさぎ達は元の姿にもどると診療所からわらわら走って出て行った。ただの野うさぎと違って彼等はて下僕として与えられた持ち場があるのである。
「どうするのそれ?身元不明の妖怪を勝手にベッドなんかに運んで、後で永琳に怒られても知らないわよ。」
「妹紅の家の近くに落ちてた。後々のことを考えると助けておいたほうがいいと思う。たぶん・・・。」
 妹紅の名を聞いて不機嫌だった顔が更に不機嫌になる輝夜。舌打ちしてそのまま診療室から出ようとする。
 永遠亭は今回の異変に関して藤原妹紅に全面協力すると決めた。輝夜としても妹紅に対する個人的な恨み辛みは一旦置いて協力しなければならない立場にある。しかし、積極的に協力する気など更々無い輝夜としては、この件にこれ以上関わりたくないので早々に退散を決める。
 てゐは輝夜が去ろうとしている気配を背後で感じながら、応急手当をしようと教えられた通りに外傷箇所やその数の視診に入る。
 目に見えてわかる大きな外傷が右腕で、肘のすぐ下から欠損してしまっている。問題は肉体が切断されているのではなく、明らかにその部分が人工的に作られた痕跡があり、その部分が機械的に破損しているということである。
 体の複数箇所から出血した痕があるが、その腕の欠損によって出血した痕跡はない。肉体と機械の境界となる肘の下のつなぎ目部分に目立った大きな破損はなく、修理すれば直せそうである。しかし、それは医術の領分ではなく科学の領域で、てゐにどうこう出来るものではなかった。
 高度な技術を持つ永遠亭という組織の中にいる所為か、機械的なものに対して免疫があるてゐは、この一部機械化された妖怪を見ても比較的冷静でいられた。しかも、機械といっても師匠である八意永琳の作るものとは比べものにならないほど稚拙なもので、あり合わせの材料と低い技術レベルによって作られたのだろうと容易に想像出来る為、尚更危機感を感じない。
「・・・む?」
 しばらく、この改造妖怪に集中していたてゐだが、ふと、先程診療室を出ようとした輝夜が同じ場所に留まって動いていない事に気付いて変だと思い、作業を中断して振り向いた。そして、一部機械化された妖怪に対して驚きもしなかったてゐがそこで大いに驚いた。
「・・・何か用?異変が終わるまではそれぞれの時間軸を維持してないとだめでしょう?」
 輝夜が診療所の入り口の向こうにいる何者かに問いかけているのをてゐは見た。そして、その相手とは複数名の蓬莱山輝夜の姿だったのである。
 輝夜が複数の時間軸を形成し、平行世界毎にそれぞれ独立した複数の輝夜が存在していることを知っているてゐだが、診療室の開いた戸の向こうに夥しい数の蓬莱山輝夜を直接見るのは初めてで、頭で分かっていても実際にそれを見てしまうと面食らう。長く生きた妖怪は、危機的状況にも動じなくなるものだが、妖怪最長命の一人である因幡てゐもこれには流石に驚きを隠せなかった。
「・・・。」
 輝夜の質問に即答しなかった他の輝夜達は、次の瞬間一つに糾合し、ここにいる輝夜は2人だけになった。
「ちょっ!これは、どういうこと?」
 てゐは2人のやりとりを見ながら自分に背を向けている輝夜の衣服の裾を鷲掴みにする。そうしないと、自分の知っている自分達の姫個人を認識出来なくなってしまうと思ったからである。
「貴女も薄々気付いているでしょう?」
「何が?」
「貴女の受け持つこの世界は、特異的に分岐した超レアケースだってことを・・・よ。」
 たくさんの輝夜が集合して一人になった代表者的な輝夜がてゐの存在を無視するように説明する。取るに足らない者としての無視というより、敢えてこの会話を傍聴させているともとれる。
 無数に枝分かれした世界は、流動的な歴史の流れが落ち着いた段階で一つに集束してそれぞれの情報を統合し、その中の最良の結果を生み出した時間軸を本軸として選定し、それを起点に情報を並列化して再度分岐する。今、無数の輝夜が一つになったのは情報の統合が行われた事を意味し、てゐが掴んでいる輝夜だけがその情報の統合から漏れたわけである。
 一人仲間外れにするということは、統合された情報からの隔離を意味し、だからこそてゐが掴んでいるこの世界の輝夜は怒って説明を求めたわけである。
「・・・なるほどね。この世界を隔離するのね。」
「貴女の永琳は完全にパラダイムシフトを起こしているわ。本来の姿に戻ったとしても、それは私達にとってそれは何ら役にならない。更に、これは恐らく彼女一人だけの問題では済まないはず。その影響は恐らく貴女にもこの世界にも及ぶわ。そんな異物を含んだまま貴女と情報を統合するのは危険よ。重大なバグとしてこのシステムを大きく狂わし、世界を変えてしまう可能性があるわ。それが如何に危険で許し難い事であるかは当然貴女にも理解出来るでしょう?」
 ここで言う世界とは月の世界を中心にした世界の事であり、地上の世界にとって有益でも、月の世界に不利益となればそれは排除しなければならない案件だった。
「・・・それが蓬莱山輝夜の意思というのなら、従うのが蓬莱山輝夜としての使命ね。」
「流石私。話が早くて助かるわ。」
「まさか私がハズレを引くとは思ってもみなかったわ。」
「皆そうよ。自分のいる時間こそが最も優れていると思っているわ。まー『責任』から解放され、本当の自由を得られると前向きに考える事ね。これまでも、これからも、平行世界の袋小路は生まれ続けるわけだし。それに・・・。」
「最後になってこの世界こそが『アタリ』だった・・・ってこともあるかもしれないしね。」
「ふふ、そういうこと。では、ご機嫌よう。特別な永琳をよろしくね。」
 そう言って、てゐがついていない方の蓬莱山輝夜は、ここで初めててゐに一瞥いれて診療所の扉から姿を消した。
「ひ、姫・・・様?」
「ふふ、これで、正真正銘の無職(ニート)ね。」
「それは、姫にとって良いことなの?」
 横から話を聞くだけだと自分達の姫が仲間外れにされた様に見えるが、彼女達にしてみれば当然の合意として至極当たり前の事をしていただけにも見える。事情を中途半端に知っているせいで、これをどう判断していいのかてゐにもはっきりしない。レイセンならきっと、こっちの輝夜に同情し、あっちの輝夜にケチをつけるという単純な勘違いを犯して、かばった当人に逆にこっぴどく怒られていたことだろう。
「私達は世界を滅ぼさない様にするのが仕事。こうやって今までもイレギュラーを排除してきたのよ。これまでも、これからも。というか、何で泣いてるの?てゐ。」
「だって、なんか姫が仲間外れにされたみたいで・・・。」
 一連のやりとりを見たてゐは、地上民の感覚で捉え輝夜にひどく同情していたのである。一方で月の御姫様にはそういった感情や感覚が理解できなった。やはり、別の世界の者同士なのである。
「あいつらの世界から隔離されたとしても、私自身の能力が消えるわけではないわ。逆に言えばこの私を起点にここから新しい世界と歴史の本筋が始まろうとしているのよ。ただ、あの永琳を基準にするという点で、あいつらとは全く違ったベクトルを持った世界が進み出しそうだけどね。」
「・・・そ、それは、喜んでもいいの?」
「ええ、これはある意味おめでたいことよ。公務から解放されて、晴れて完全無欠の無職になったんだから!」
 ぱーっと表情が明るくなる輝夜とは裏腹に、複雑な表情になる因幡てゐ。
「・・・。」
 てゐは、本当に嬉しそうにしている輝夜を見て、それが演技なのか本心なのか判断できなかった。人間なら相手に心配させないように強がって見せる下手な演技をしてみせるが、変化した永琳ならともかく目の前にいる宇宙人にはそんな殊勝な振る舞いなどできるはずもない。しかし、あの永琳を直に感じた今の輝夜なら或いは・・・と期待してしまう。
 内心穏やかでは居られず、心の中では泣いているのかもしれないと、てゐは前向きに考える事にした。そして、今の輝夜なら苦戦を強いられているだろう永琳とレイセンの援軍として永遠亭から連れ出せるかもしれない・・・。
 てゐは、あの妖怪と自分の怪我は一先ず置き、妹紅の異変を成功させる為、今少し働こうと決意した。


 永遠亭に於いて重大な分岐が起きていた頃、時を同じくしてこの世とは違う別の場所で一人の少女が孤独と戦っていた。
 ここは、あの世の一歩手前の『選択の間』である。
「畜生!何でだよ!」
 白と黒と金色の少女が1人、思い通りにならない現状を罵りながら四つん這いになって床面を叩いている姿が遠くに見える。
 藤原妹紅は火の鳥の傍を離れて、霧雨魔理沙のいる方へ向かって歩いていた。
 気付かれない様に気配を消して忍び寄ったつもりはなかったが、そのすぐ後ろに立っても未だに魔理沙は妹紅の存在に気付く様子もない。ここに自分以外の何者も存在しないことは既に承知しているのだろう。だから、周囲に気を配るのは止めて床面に開いた穴にだけ意識を向けているのだ。気付かなくても仕方がないが、魔法使いの端くれなら、この状況にも冷静で、或いは興味を持って臨んで欲しいと、先程別れたばかりの魔理沙の母、サーヤとの歴然とした差を感じる妹紅。
「(しかし・・・)」
 彼女が自分の意志とは裏腹にここに強制的に導かれた経緯を考えれば、過大な期待は酷というものだろう。少なくとも魔理沙は床面に開いた穴の向こう側で起こっている状況を、夢物語などではなく現在進行形で進んでいる現実だと捉えているだけで上出来と言えるだろう。どうにもならない自分に憤りを覚えているのは、現状を何とかしたいという気持ちの表れであり、普通の人はこの状況を見て自身の肉体を諦めて早々に黄泉路を辿る決断をするはずである。
 そして、その決断を自発的に行い此岸に未練を残さず、死を円滑に行う様にするのが『選択の間』の役目なのである。

「・・・魔理沙。」
 そんな魔理沙に妹紅は驚かせない様にそっと声をかけた。それを受けて身を強張らせた魔理沙は一寸キョロキョロするものの空耳だと判断したのか元の格好に戻り、先程と同じ動作を始める。
 やれやれという仕草をした妹紅は、今度は大声で呼びかけた。
「おい!霧雨魔理沙!」
「おわっ!」
 誰も居ないと決めつけ、先程の呼びかけも空耳と思い込んでいた魔理沙は、不意打ちを喰らって口から心臓が飛び出しそうな勢いで、文字通り飛び上がって驚き、その場に尻餅を突いて大の字に倒れた。
 仰向けで真上を向いていた魔理沙は視線をやや頭の方に向けた。すると見覚えのある小柄なのにやたら表面積が広いシルエットが視界に逆さまに飛び込んで、更に驚いて立ち上がる。
「も、妹紅?」
「よう!」
 妹紅は通りすがりの知人に気さくに声をかけるように右手を上げて、笑いを押し殺したぎこちない笑顔で挨拶する。
 魔理沙は一瞬状況が掴めず頭を抱えて考えるポーズをしたまま固まってしまったが、順を追って頭の中を整理し、見知らぬ場所でのこの奇跡の様な再会が予め予定されていた必然であることを理解すると心の底から安堵し、肩の力が抜けて大きくため息がもれた。
 この時の魔理沙は既に過去の封印されていた記憶を取り戻し、魅魔も含めて妹紅が全てを掌握して、この状況に自分を追いやった事を理解しており、つい先刻までそれを忘れていたが、今ようやく思い出したのだ。
 魔理沙は安心して、自分より背の低い妹紅の両肩に手を乗せたままヘナヘナと腰砕けになってペタっと腰を落とした。
「どうした魔理沙?」
「いや、妹紅の顔を見たら、なんか安心して・・・。」
「安心するのはまだ早いんじゃない?」
「え?助けに来てくれたんじゃないのか?」
「ここは、『選択の間』と言って、生きるか死ぬかの選択をする場所よ。でも、一度死んだ人間はそう簡単に生き返れるものではないわ。」
「そ、そうなのか・・・。」
 ほっと一安心した魔理沙の表情にまた陰りが出る。
「まず、本人が生きたいと望むかだけど。」
「そ、それなら私は!」
「落ち着いて魔理沙。」
 妹紅は大人が若輩を諭す様に、指で床面を指しちゃんと座れと指図し、素直に従う魔理沙を見て、自らもそこにあぐらをかいた。
 魔理沙はだらしなく落としていた腰を上げてその場にしゃんと正座している。霊夢やアリスに対する態度とは明らかに違う、目上に対する態度になっている。いい傾向といえる。
 妹紅はこの現状に満足して、自分が今すべきことを行った。
「まずは、先に謝らせてほしい。」
「ちょ、待ってくれ私は別に・・・。」
 頭を下げようとする妹紅を慌てて止めようとする魔理沙。
「魔理沙を殺してここに追いやったのは他でもない、私だ。」
 傾きかけた頭を一度上げて相手の目を見て真剣な眼差しを向ける妹紅。
「うん、それは分かってる。魅魔様と連んで・・・でもそれは私にとっても魅魔様にとっても必要な事で・・・。」
「だからと言って殺した事実にかわりはないし、殺しを正当化する理由にしてはならない。」
 妹紅はそう言って魔理沙に深々と頭を下げ、救済を目的としたとは言え、殺した事実に対し誠心誠意謝罪をする。
「頭を上げてくれ妹紅。元はといえば私が・・・私の所為なんだ。」
 魔理沙はそこまで言って押し黙った。妹紅は魔理沙の雰囲気が変わったのを受けて頭を上げた。
「・・・魔理沙・・・。」
 膝の上に置いた手を堅く握って肩を震わせうつむいている。後悔の念に苛まれているのだろうと容易に想像出来る。身から出た錆とはいえ、15に満たない少女が背負うには大き過ぎる過ちだった。


 10歳にも満たない頃、霊夢が輿入れする神社に先回りした魔法少女魔理沙は、そこを管理していた大魔導師魅魔と運命的な出会いをする。その時、魅魔が追い払おうとして使った魔法に魅せられた魔理沙は、霊夢の輿入れを妨害するという当初の目的を忘れ、魅魔にしつこく師事を乞い正式に弟子として認められ、当時ホウキに乗って飛ぶくらいしか出来なかった魔理沙は魅魔の元で急成長した。しかし、急激に力をつけたことで増長してしまい、力に魅せられた危険な魔法使いになってしまう。
 自分を甘やかす師匠を軽んじるようになった魔理沙は粗暴になり、実家に戻っても我が物顔に振る舞い父親と衝突。そしてとうとう勘当されてしまう。更に魅魔とも仲違いして、独り無謀な挑戦を繰り返すようになり、遂に近づくことを禁じられていた西洋墓地で英霊達を辱め逆襲に遭って命を落としてしまう。
 この当時既に他界し娘の魔理沙の守護霊となっていたサーヤは、娘を殺した吸血鬼の英霊と賭をして魔理沙の死を保留させた。そこに火急を聞きつけた魅魔が駆けつけ死霊術をアレンジした転生術で魔理沙の肉体と魂を強制的に結びつけ条件付き蘇生に成功したのである。
 しかし、死霊術によって復活した魔理沙は、魅魔の虜となって忠実に動く下僕となってしまい、生前の魔理沙ではなくなってしまったのである。
 試行錯誤の末、魅魔が自ら魔理沙の肉体と魂を繋ぎとめる鎖となることを決意し、当時八雲紫不在の幻想郷の管理を任されていた魅魔は、復帰のタイミングを見計らって、下僕の魔理沙らを率いて封魔異変を起こし、博麗神社の巫女霊夢と戦って敗れ、死を偽装して魔理沙の中に隠れたのである。
 霊夢と一戦交え敗れた魔理沙は、魅魔と引き替えに限りなく完全に近い不完全な復活を遂げた。そして、ネガティブな記憶を改竄された魔理沙は当たり前の様に霊夢の元に戻ったのである。
 八雲紫をも凌ぎ、その抑止力とも言えた幻想郷の大賢者魅魔の変心と死は当時の幻想郷に大きな衝撃を与えたが、それ以上に脅威となったのは、若干10歳にして悪霊大魔導師を倒した博麗神社の巫女、霊夢の存在だった。
 時の人となった博麗霊夢は、妖怪退治を生業とする巫女、正確には陰陽師として名声を上げ今に至っており、その周囲には常に白と黒の魔法使いを見るようになる。

 魅魔は八雲紫が幻想郷に復帰するまで博麗神社と幻想郷の管理を任されており、霊夢が10歳になり神社に輿入れすれば、親代わりとなって霊夢の面倒を見るはずであった。しかし、その直前に魔理沙が魅魔の前に現れた事で全ての歯車が狂ってしまったのである。
 その当時、霊夢の輿入れは上白沢慧音と妖酔直属の部下らの警護の下に行われたが、この時神社に魅魔は居なかったのである。慧音としては決して霊夢を置き去りにしたわけではなかったが、魔理沙の事件は全く知らず、大賢者がたまたま留守だったと思い込んで、特に形となって残さなければならない様な手続きもなかったのでそのまま霊夢を独り神社に置いてきてしまったのである。この事は慧音も後悔しており、その後何かと霊夢を気に掛けるが、霊夢はその当時の事をよく覚えていない。これは忘れたというより、思い出さない様にしていると捉えるべきだろう。
 誰も居ない神社で独り寂しく数日過ごした10歳の霊夢は、後見人となる大賢者魅魔とようやく会う事が出来たが、出会った時から敵対的で、間もなく謀反が起こり封魔異変が勃発。霊夢はそこで変わり果てた幼馴染みと再会する。
 家族にも等しい親友と謀反の首謀者魅魔を倒してしまった10歳の少女は心に大きな傷を負い、最後は結局独りになるなら誰とも関わらない交わらないという無常観に苛まれ、この歳にして悪い方に達観し世捨て人の様に外界と距離をとって生きる様になってしまったのである。
 神様と人間の間を取り持つ神社の役目を霊夢が果たさなくなったことは、今回の異変にも間接的に影響していることは事実で、久々に誕生した巫女である霊夢の存在は、幻想郷においてとても重要な事だっただけに、この霊夢の悪い方への成長は、八雲紫などにとっても大誤算といえた。
 同じ日に生まれ、同じ乳を飲んで育った2人の少女の運命の狂いは、幻想郷にとって大変な不幸だったのである。


 正座したまま顔を強張らせ、後悔の念に押し潰されそうになっている魔理沙。
 どんなに悔やんでも悔やみきれない。あの時ああしていればと思い当たる節が多すぎて後悔しか出てこない。霊夢と離れたくないという一心で、神社までたどり着いたのに、魅魔の魔法を見た瞬間その思いもどこかに吹き飛んで、霊夢の事が二の次になってしまった。薄情で身勝手で我が儘で無能だと自分を罵る。
 そんな魔理沙を見て妹紅は立ち上がって、帽子のない金色の頭に優しく手を乗せ、ゆっくりと撫でた。
「なってしまったものはどうしようもない。私も何度も失敗して、その都度後悔ばかりだった・・・。」
 妹紅は魔理沙を慰めると同時に自身の罪を省みる。死んで詫びる事も出来ず、ずっと自分を責めてきた。今の死んだ魔理沙を見るにつけ、死んでからも後悔するのだから、死んで詫びるなど単なる責任逃れなのだろうと、昔の自分の未熟さを思い返す。
「・・・妹紅。」
「ん?」
 悔やみに悔やんで悔やみ抜いた魔理沙は暫くして意を決し顔を上げた。
「どうすればいい?どうすれば向こうに戻れる?」
 魔理沙は方法はわからないが妹紅なら戻せる、向こうの世界へ帰れるという確信を持ちながら迫り、一刻も早くここから抜けだし、幻想郷に戻って蘇生の為に懸命に働いている知人達の元に帰りたいという気持ちを妹紅にぶつけた。
 縁者として魔理沙の元に現れた妹紅にとって、魔理沙を帰す事はとても簡単な事だった。背中を押してその穴に魔理沙を落とせばいいのである。
 この穴は、現世をのぞき見る為の窓ではなく、そこへ戻る通路の入り口である。しかし、自力でこの穴を抜ける事はできず、必ず他者の協力を得なければならない。その他者の存在を生前得られるか得られないかが、『選択の間』における生死の分かれ目なのである。
 妹紅はその他者となる権利を得る為に、魔理沙を目にかけ、知識を与え、大切な道具も授けてきたのである。そして図らずも、魔理沙の母親の恩人となった事でその資格を十二分に得たのだ。
「・・・。」
 懇願の眼差しですがるように妹紅を見上げる魔理沙。妹紅としては意地悪をする気など全くなかったが、今が魔理沙更正の絶好の機会とみて、直ぐに願望を叶える事はせず首を振って待ったをかけた。
「魔理沙、もし、お前が真っ当に生きてここに来てしまったのなら、ここには恐らくお前の母親や霧雨家のご先祖が現れているはずだ。」
 妹紅は男口調になって厳しく諭し始める。
「お、お母さん?」
 魔理沙は父親を「オヤジ」と呼ぶが、亡き母に対しては敬意と親しみを込めて「おかあさん」と呼ぶ。
「ここは肉親や親戚縁者、生前、特別な関係にあった生き物、大事にされて命を受けた付喪神しか来れない場所なんだ。」
 それを聞いて魔理沙は、当たりをキョロキョロした。もしかしたら母親が居るかもしれないと思ったからである。
「何故ここにお前の母親ではなく私がいるのか、わかるか?」
「分からない・・・あ・・・いや・・・分かってる。」
 魔理沙は咄嗟に分からないと言ってしまったが、直ぐに訂正した。
「お前が無謀な戦いを挑んで返り討ちにした連中に、お前の守護霊だった母が頼み込んで完全な死を保留してもらっていたんだ。その代償としてお前の母親はそいつらに魂を差し出してしまったんだ。お前の母親は既に跡形もない。」
 最後の言葉は嘘だった。吸血鬼始祖の英霊達に認められた妹紅への報償代わりに魔理沙の母親は解放されて、先程まで一緒にいたのである。しかし、本来ならこのような幸運には恵まれず、一般論として妹紅の言葉は正しいといえた。
 魔理沙は自分の失態で母親の守護霊が吸血鬼の英霊に囚われた事を朧気ながら覚えており、妹紅に言われて完全に思い出したのである。その後魅魔が来たのまでは覚えているが、死霊術を施されて『別人』になってからの記憶はない。
「おかしいと思わないか?」
 母親まで殺してしまったと後悔の念が再びもたげてくる魔理沙に追い打ちをかけるように突然妹紅が疑問を投げかけるが、魔理沙にはその問いについて、何がおかしいのかが咄嗟に理解出来なかった。
 自分の身代わりとなって母の魂が消滅したのは事実で受け入れがたい事ではあるが、それについては真実で何もおかしなところはない。
 無理はなかった。死や死後の事など知識に明るい者ならすぐに気付くが、魔理沙はそれに関しては全くの無知だったからだ。
「おかしい?何が?」
 魔理沙も不思議に思い戸惑いの表情を見せる。妹紅の顔が先程までと違って恐ろしくなっているのもあって不安が増幅する。何か重大な事を見逃しているのだろうか?
 これは妹紅の演出でもあったが、ここからが大事なところなので強く印象づける必要があったのでわざわざ謎めいた言い方をしたのであった。
「お前は当時、父親から勘当され霧雨家の戸籍から離れている。今のお前は霧雨を名乗っているが、実家とは縁が切れ親戚縁者が誰も居ない孤独な存在だ。しかしあの時、お前が死んだ時、霧雨家の人間であるお前の母親の霊はお前の守護霊としてそこに居た。」
「!?」
 魔理沙は嫌な予感と共に鳥肌がたった。
「お前の母親は、霧雨家の当主であるお前の父親の正式な妻として戸籍に入り鬼籍に着いた。霧雨家の人間として代々の墓に入っているはずだ。つまり、実の母子である事実にはかわりはないが、霧雨家を追放されたお前とは家系的には赤の他人と同じ状況になっていたんだ。」
「でも、それならなぜ?」
「お前にとって憎たらしい親父だろうが、彼はお前を勘当した後、愛娘がご先祖の加護を受けられない事を不憫に思い、妻の遺骨を墓から出して、霧雨家からお前と同じ様に追放し、霧雨家との縁を切るかわりに母子の縁を回復させ、お前の守護霊となれるように便宜を図ったんだ。つまり、お前の父親は母親と離婚したってことだ。」
 これは先日森近霖之助から聞き出した真実である。
「んっ、な!」
「手の付けられない程、別人のように荒んだお前を見て、家や里に迷惑がかかるとの苦渋の決断だったことだろうよ。」
 魔理沙は、吐き捨てるように言い放つ鬼の剣幕になっている妹紅の顔を直視出来ずにがっくりとその場に手をついてうなだれた。
 自力で魔法を習得し、幼い頃から一端の口を利いて、父親に魔法使いとして認めさせようと必死だった魔理沙。魅魔から魔法を学び力を得て増長した幼い魔法使いは、真っ先に父親にその力を見せた。しかし、返ってきたのは鉄拳制裁で、当時の心も身体も未熟な魔理沙は、その愛の鞭の意味も理解出来ず反抗して余計に力に傾注していった。
 何度も衝突し、その度に周囲に迷惑をかけ、それを反省しない人間性を失いかけた娘の変貌ぶりに父は遂に匙を投げ、勘当を申し渡したのである。
「子供を愛さない親はいない。この父親の身を切る正しい判断がなかったら、お前の母親はお前の守護霊になれず、魔理沙はあのまま死んでしまったんだ。そうなれば大切なものを失った悪霊がその後どうなったかはお前にも想像できるだろう。かもすれば幻想郷は滅んでいたかもしれないんだ。」
 重い鈍器で後頭部を思い切り殴られ、そのまま押さえ込まれた様に魔理沙の頭は漆黒の床面に張り付いて離れなかった。
 父親の事はこれまであまり気にしていなかった。勘当といっても家出したようなもので、そのうち帰れるだろうと気楽に思っていた。勘当された当時は父親を憎悪していたが、今となってはどうでもよく感じていた。しかし、思いの外事は重大で、あれだけ愚弄した父親が自分を守る為に身を切っていたことを聞かされ、父の偉大さと更なる後悔の念が膨れあがっていた。
「どこまで私はバカなんだ・・・。」
 魔理沙はその場で頭を大きく上げて床面に打ち付けた。しかし、全く痛くなかった。
「ここでは肉体は存在しない。ここでの自傷行為は意味がない。」
 妹紅は冷たく言い放つ。苦しみを痛みに代えて誤魔化す事はここでは出来ないのである。
「起こってしまった事をここで後悔してもしようがない。反省の仕草だけなら妖精にも出来る。」
「じゃー私はどうすれば?」
 悲しいのに涙が出ない悲痛な表情の魔理沙が妹紅に追いすがる。
「人間になれ魔理沙。生き物としての人間ではなく、歴史を持った正真正銘の人間にだ。」
「にんげん?」
「父親に謝罪し、母子共々霧雨家に戻してもらうんだ。お前はともかく、形式だけでもそうしてやらないと、母親は浮かばれないし、父親の心の痛みも消えないだろう?」
 それを聞いて魔理沙ははっとなった。そして、出なかった涙が溢れてきた。
「形式上ではなく、本当の復縁はそう簡単なものではない。何年かかってもいいから、お前が生きている間に絶対に霧雨家と復縁するんだ。約束するならお前を向こうに帰してやる。」
 泣きじゃくる魔理沙は、返事が上手く出来ずうんうんと何度も頷いて、妹紅との約束を誓う。
 妹紅はここでの出来事は向こうに帰ってしまえば全て綺麗さっぱり忘れてしまうことを知っていた。しかし、今ここで起こった事を心の痛みとして魂に刻み込んでおけば、無意識にそう動くはずである。絶対ではないが、妹紅は魔理沙を信じた。必ず今言った事を実行してくれると。
 そして妹紅はそうなる為に魔理沙の魂に一つの刻印を植え付けようとする。
「魔理沙、一つ賭をするか。」
「え?か、賭?」
 思いがけない妹紅の申し出に戸惑う魔理沙。その表情が先程と違って砕けていたので少し安心する。
「前々から考えていたんだ。せっかく『選択の間』に来れたんだからしばらく休もうってね。」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
「なぁに、お前がすぐに復縁すればいいだけの話さ。そうだな、復縁に10年以上かかる方に私は賭けよう。お前は10年以内に復縁出来る方に賭けろ。」
「何だよそれ!わけわかんねーよ!だいたい賭けって言うけど、何を賭ければいいんだよ!」
「そんなのお前の未来に決まってるだろ。私が勝てば少なくとも10年分休める。そして、お前は10年以上悶々と過ごす事になる。口で言うのは容易いが定命の人間が10年分無為に過ごすのは大きいぞ。でも、お前が直ぐに復縁できれば、それだけ沢山の明るい未来が待っているし、私は休む間もなく直ぐに幻想郷に復帰してしまいサボれない。」
 記憶とは一見すると人が触れる事の出来ない無形の存在に感じるが、脳の記憶を司る部位に直接書き込まれる物理的な現象である。だからこそ、記憶を改竄したりすげ替えたり消したりも出来る。精神と魂だけのこの世界で経験したことは、それを書き留める物理的な媒体が存在しないので、無かった事にされる。しかし、強く印象に残った想い出は魂に刻むことが出来る。この魂の記憶は都合良く忘れたり思い出したりは出来ず、人生に於いて行動や思考に絶えず干渉し、時には危険を回避する一瞬の判断や、正しい答えを導き出す第六感となるのである。
 輪廻を巡る間に沢山の経験を積んだ高い位の魂を持って生まれた者は、様々な場面で魂の記憶に突き動かされ無意識に正しい選択をして大成していくのである。
 全てを忘れてしまうだろう魔理沙だが、ここで賭をした経験は魂に刻まれ、異変終結後も幻想郷に復帰してこない妹紅を疑問に思い日々悶々と過ごすことだろう。そして無意識に自身の魂に問いかけ、問題の解決を探ろうと突き動かされるのだ。
「そんなの私が勝つに決まってるじゃん!」
 賭け事が嫌いではない魔理沙は直ぐにのってくる。
「言ったな。ならば賭けに乗ると宣言しろ。」
「分かった。その賭け乗った!直ぐに妹紅を幻想郷に復帰させてサボらせないからな!」
 魔理沙は元気を取り戻し、いつもの様にニヤリと笑ってみせる。妹紅はそれを見て安心し肩の荷が下りた心境になり、帰り支度をするために床面の穴に移動する。状況が次の段階に移行したと察知した魔理沙もそれに倣う。
 先程魔理沙に声を掛ける時、こっそり穴を覗いて見た時は、魔理沙蘇生現場に焦燥感が表れていたものの蘇生活動は懸命に続けられている最中だった。そこから更に時間が経って、どのように変化したのか興味がある。
 まるで他人事の様だが、永遠亭が率先して蘇生活動を進めているのを確認した後だったので妹紅には妙な安心感があった。
 妹紅は、具体的に何をどうしろと頼んだわけではなかったが、メッセージを正しく受信してそれを忠実に実行しているレイセンを見て満足そうに頷く。しかし、現場では色々な意味での限界が来ている様で、特に肉体的な疲労に伴うモチベーションの低下が深刻になっていた。
「・・・まずいな・・・ん?」
 そろそろ魔理沙の中身を返してやらないと手遅れになる時間帯だったが、ここで思わぬ来訪者を目にする。これは妹紅にとって全くの想定外、青天の霹靂だった。
「(おいおい、マジかよ!)」
「あれって、月のお姫様だよな?」
 魔理沙もその意外な顔に驚きと戸惑いを覚える。
 妹紅は、この期に及んで妨害工作はないだろうと思ったが、危険な気配を感じ魔理沙の腕を掴んでいつでも帰れる準備をして様子を伺った。
 
 全てが妹紅の思い通りに進む異変におけるこの意外な来訪者の登場は、今後の展開を占う意味で重大な分岐点といえた。
 



 『死』

 何を以て死と定義するかは、地域性や民族性、時代毎に移り変わる文明の死生観によって様々であるが、心肺機能が停止し肉体が蘇生不可能に陥った状況が、最も単純かつ大多数に支持される共通の死の定義と言えるだろう。
 しかし、それはあくまで一般的な人間の社会文化に当てはまるもので、妖が支配するここ幻想郷においては、肉体的な死が必ずしも個体の『死』に直結しないのである。

 大陸から切り離された大小の島々の集合体でありながら、いや、だからこそ独自の文化圏を確立した日本という国の古い伝統を基礎として、今現在もそれを継承している幻想郷では、独自に改良された仏法による独自の死生観が存在していた。
 人間は、肉体、精神、魂の三位一体で構成されており、死ぬと精神と魂だけの存在である霊体、一般的に言うところの幽霊となって肉体から分離され、この時点では、まだ一人の人間としての個は存在していることになる。
 個を維持している幽霊の多くは、生涯で初めて経験する肉体の死に直面して戸惑う事になるが、そんな霊達が、不浄霊となって彷徨い歩かない様に一定の期間その行動を制限する場所があり、これを『選択の間』と言う。
 死者の霊は、これから始まる死出の旅路に備え、長年連れ添った肉体と此岸への執着を断つ為に、ここ『選択の間』で3~7日間、自身の亡骸が弔われて埋葬される様子を上から眺めて過ごす事になる。

 肉体が生命活動を維持できなくなる状態は、老いて自然に停止する老衰死以外に、不慮の事故や病気など本人の意思に反して突然訪れる事が少なからずある。
 その中には奇跡的に生命活動が再開される者もいるが、そんな幸運の持ち主であっても、実は独力で黄泉返ったわけではなく、必ず他の誰かに生き返るよう後押しをされているのである。
 生かす後押しする者とは、先に逝ってしまった肉親や親類、友人。そして生前大事にしていたペットや大切に扱い付喪神となった道具に宿った霊など様々である。生きながらえて欲しいと願うそれら縁のあるもの達が『選択の間』、或いは『三途の川』に現れて現世へと押し戻すのである。

 幸運に恵まれなかった普通の幽霊達は、あの世への待合室ともいえる『選択の間』で、向こうの世界を覗き見ながら、肉体や現世の執着を捨て黄泉路へと向かう心を決める。そして、その最初の関門が三途の川である。
 昔は死神が死者を冥界、つまり浄土へ送るか地獄に落とすかを決めていたが、今は閻魔が仏法の倫理を基に生前の行いを裁いて幽霊の進退を決めている。

 地獄に落とされた極悪な霊も刑期を終えれば冥界へと向かい、善良な者も悪辣な者も最終的には同じ冥界の住人となり、ここで第二の人生を送ることになる。
 苦しみのない極楽浄土の生活に飽きた冥界の住人達はやがて来世へと旅立つが、この時が人間の完全な死といえるだろう。しかし、生前の経験は魂に移封蓄積され、個は消滅するも魂は一回り成長して次に生まれる命に宿るのである。
 生まれてすぐ補食され死に絶える虫けらからやり直し、何百、何千という生死を繰り返しながら、食物連鎖の階段を昇り、やがて人間の魂へと還る。これが『輪廻転生』で、一巡二巡と輪廻を繰り返すことで魂は益々成長していくのである。そうして沢山の経験を積んだ魂は御霊(みたま)と呼ばれる高位の魂となる。そうした御霊を宿した個人は偉業を為し偉人と呼ばれるようになる。そしてさらに御霊が成長すれば、神や天神、妖怪など人智の及ばない存在へと昇華していき自在を得てそこで魂の成長は終着するのである。
 これが輪廻転生の仕組みで、霊獣『火の鳥』は、優れた魂を管理保管し、『不死鳥』によって人類が滅ぼされる危機的な時代に、御霊を宿した英傑を転生させて人類を間接的に救済・発展させ、人間社会が誤った方向に発展しそうになれば、奸雄を召喚して社会を後退させ自浄を促したりもする。
 『不死鳥』と『火の鳥』は外見は似ているようで、実は水と油の様に交じることのない、交じってはいけない存在なのである。

 平安後期以降生まれた死後の世界、極楽浄土が存在するという死生観とその思想は、辛い世相を苦しみもがいて生きてきた多くの民に支持され、武士以外にも民間信仰として仏法が日本に広く、そして急速に浸透した。
 浮き世から隔離されていた幻想郷にもその思想が輸入され、完全な隔離結界に移設された1400年代頃になると、宗教というより一般教養として仏法の死生観は定着する。
 敢えて仏法を宗教として広めなかったのは、幻想郷が神社主導の神道世界として構築された為で、博麗以外の信仰は御法度とされていたからである。それ故、里に住む人間達は、死後極楽浄土に行けると、神社からそれを教えられ、子や孫に語り継いできたのである。


「・・・。」
 何時の時点からここに立っていたのかはっきりと覚えていない。ふと気が付いたらここにいて目の前の異形の存在と対峙していた。
 藤原妹紅は、不死鳥の自爆の爆心にいて、浄化の炎の中でリザレクションの機会すら与えられず、不死身でありながら仮初めの死を得ていた。これで冥界の住人の一歩手前の存在になっているはずである。そして、段取り通り進んでいれば今現在死亡していると思われる霧雨魔理沙の縁者として『選択の間』に訪れ、そこで魔理沙に正しい死と正しい黄泉還りをさせる予定である。
 しかし、その前に一つやらなければならない事があった。今目の前にいる異形の存在との因縁を断ち切る大仕事である。

 異形の存在とは、転生して自分の中から消えた不死鳥の残滓の事である。
 上白沢慧音曰く、不死鳥は世界各地の鳥をモチーフにした神霊と合祀され、合成獣(キメラ)と化しているそうで、その中に慧音と同じ種族である霊獣『火の鳥』もキメラの一部、或いはキメラの根源的存在となっているらしいのだ。
 不死鳥が妹紅から解き放たれた今、中心的存在を失い取り残された残骸であるキメラから、火の鳥を開放するチャンスで、この機会を逃してはならないのだ。尾びれがついて思いがけず幻想郷の行く末に大きく関与してしまったが、何も知らなかった当初に異変に与すると決心した大きな理由がこの火の鳥救出だったのである。

 その慧音の予想通り、妹紅の目の前には複数の鳥の頭や羽根、足を持った肉の塊、合成獣キメラが生皮剥がれたように血まみれの肉塊姿で地べたにだらしなく鎮座していた。
 鳥の姿をした神霊は、何れも美しい姿をしているはずであるが、これは見るも無惨でまるでこれから食肉に加工でもされるかの様であり、祟りにならないのが不思議なくらいである。
 
 この場所は、霧雨魔理沙の選択の間ではなく、不死鳥の浄化の炎の中で仮初の死を得た藤原妹紅の自身の選択の間である。
 漆黒の闇の中で自分自身が朧気な青白い光を帯びている。発光と呼ぶには余りに弱く、水鏡に映るホタルの光にすら及ばないほど弱々しい。周囲を明るく照らす程の光量はないが、漆黒の闇故に、その淡い光でも明るく感じ、差詰め洞窟に自生する光苔のようである。
 対して目の前のキメラは、黒く濁った血み泥にまみれ黒光りしている状態で、元は偉大な神霊だったという面影すらもない。かつては名のなる神霊だと思うと哀れでならない。
 藤原妹紅はポケットに手を入れたまま、少し背を丸めた臨戦状態で一度目を瞑りそして開いた。
「・・・それにしても。」
 このような汚物が永きに亘って自分の中に存在していた事を知って憂鬱な気分になると同時に、これこそが背負っている業の巨大さなのだと自嘲する。
 しかし、感傷に浸っている暇はない。今やるべき大事がある。妹紅は本命の『火の鳥』を救出すべく、先ずはこのキメラに自我が存在するか確かめる為に、最も簡単で確信的な質問を投げかけた。
「お前は誰だ?」
 その質問に反応するかのように、巨大な肉の塊が一瞬痙攣する。そしてそれぞれ別の方向を向いてバラバラに思考していたような複数の首が一斉に妹紅を向き、期待していなかった予想通りの答えを返す。
「・・・私は・・・不死鳥・・・。」
 不気味な声が頭の中で木霊する。
 今ここにいるキメラは火の鳥が中核となっているはずだが、火の鳥は不死鳥に取り込まれ混同されていた時間が長かった為か、完全に自分自身を神獣不死鳥と思い込んでいるようだ。
 神獣不死鳥は、人間や妖怪、神様の都合に関係なく、定期的に世界を壊しては再生するという行動を繰り返す。そこに住む生き物にとっては甚だ迷惑な存在だが、環境に変化をもたらし進化を促進させる重要な役割を持っていた。このサイクルによって長期に亘る単一の生物や文化が繁栄することを防ぎ、結果として環境破壊を抑制し世界を保全してきたのだ。
 万物の仕組みに関わる自然現象を象徴化した存在なので、人間と対話することも、ましてや説得など到底出来ないはずなのに、ここでは一応の対話が成立している。この矛盾に当の火の鳥自身が気付いていないということは、相当な重傷といえる。

 不死鳥は妹紅の体を乗っ取る以前から、無数の神霊とのキメラ化が進んでいたのだろう。神霊同士の合祀であれば、より強大な神霊へと昇華変化するだけだが、相容れない火の鳥を取り込んだ事によって不死鳥には本来必要のない輪廻という概念が刷り込まれ、本来の目的を失し神獣としての役割を喪失してしまったのである。
 不死鳥は火の鳥の人間擁護の性質を継承したことで、無差別に被害を及ぼす転生を止めてしまい、代わりに増加する人間を適宜に間引きするという消極的な方法をとる矮小な存在へと堕ちてしまったのである。
 不死身の妹紅の体は人間を局所的に且つ効率的に減らすという目的の為に都合良く利用され、戦国時代、織田信長の一向宗討伐、比叡山焼き討ちなど、数十万人規模の虐殺に何度も荷担し、一個人では到底背負いきれない巨大な業を背負って羅刹化してしまったのである。
 殺せば殺す程に強まる業の力はやがて不死鳥を基としたキメラをも凌駕してしまい、主導権がキメラから鬼妹紅に移行する。ここに不死鳥の力を宿した不死人、悪鬼羅刹を内に秘めた藤原妹紅が誕生したというわけである。
 八雲紫の妹、藍から譲り受けた万物の姿を一定に保つリボンの形をしたお守りのお陰で人間の姿を維持できた妹紅は、世界のあらゆる歪み、不条理をその身に隠し持ちながら幻想郷入りし、宿敵である永遠亭との闘争を繰り返しながら300年程幻想郷の一角で隠れ生きていた。
 先日、異変の前哨において、新たな力を手に入れた妹紅は、妹紅個人の力が不死鳥を制した羅刹を制するまで強くなり、立場が逆転した今はその羅刹すら自在に操る事が出来るまでに極まっていた。

 今の妹紅なら力でキメラをねじ伏せられるが、これでは火の鳥復活にはならないだろう。説き伏せるにしても自身を不死鳥と思い込んでいるのでは話にならない。
「(さて、どうしたものか・・・。)」
 会話はそこそこ成立しそうだが、しかし、だからと言って簡単に説得出来そうにはない。妹紅はしばし思案し、一先ず、どこまで話が出来るか対話を試みる。
「久し振りだな、不死鳥。しかし、その無様な姿はなんだ?」
 妹紅は火の鳥としてではなく相手を不死鳥として話しかけた。
「・・・全てはお前の心の形、無様に見えるのは、お前自身の行いの所為・・・。」
「人を殺めれば業が深まり度を越せば異形と化すのは道理。それをさせたのはお前ではないのか?そして、この姿となった。お前の言い分は、正に責任転嫁というやつだ。」
「不死の体など、この世にあってはならぬ。それ故、この私がお前を律したのだ。」
「陰陽師でもあるまいし、不死鳥ならこの身を浄化するべきだろう?」
「お前如きの為に世界を道連れにすることなど、笑止千万。」
「それでミイラ取りがミイラになったのか?笑えない笑い話だな。」
 そう言って、妹紅は見下すように嘲笑う。そうした妹紅の無礼な態度に対して外見的には無反応だが、その後に訪れた沈黙が内心穏やかではないというキメラの心情を妹紅に教えていた。
 妹紅はこの短い対話の中で、一つ重要な事が分かった。先ず、このキメラには心や感情が存在している。これはこのキメラの基礎が慧音と同じ霊獣であることの証明となっている。本来、万物を司る元素の象徴である不死鳥は、人や神と通じる心や感情は存在しないのだ。
 そして、不死鳥の持つ本能の様な転生とそれに伴う破壊のサイクルを、人間の味方である火の鳥の独自解釈によってねじ曲げてしまい、破壊衝動と保護本能という矛盾が一つの個の中で鬩ぎ合っているのだ。
 世界を悪い方向に導いている人間を妹紅を利用して間引きする。このやり方を火の鳥は自己正当化している。
 大量虐殺という悪行もこれによって多くの人間が助かる善行だという理屈だが、こんな屁理屈は善悪の基準が存在しない不死鳥には全く通じない話である。これは、人間らしい感情など端から持っていない不死鳥の中に、人間を守りたいという火の鳥の感情が発生したことによって、肉体だけではなく精神までキメラ化している状態なのだ。

「(状況は分かった。ではどうすればいい?)」
 厄介なのは、善悪の論拠が論理的ではなく、自分は正義、相手が悪という前提が全てにおいて優先順位が上という点である。これでは何を論じても馬の耳に念仏で、説得は不可能に近い。
 これは、自縛霊や悪霊、怨霊と思考が似ていると思った妹紅は、それ用のマニュアルに乗っ取り、話の方向性を変える。
「今、お前は何がしたい?あるいは何か不満があるか?」
 この質問でキメラの様子が一変した。沈黙状態は先程と同じだが、明らかに答えに窮している様子である。
 ああ言えばこう言う。相手の言葉を全て否定する。これが得意なタイプは、持論を評価されるのを嫌うため自分の言葉は使わず絶対に己を主張することはない。
 今ここにいる火の鳥のキメラは、己の存在に固執し、存在し続ける為の存在意義を無理矢理造り出している状況といえた。自身の存在意義を疑う思考など最初から存在していない。何故こうなったかを問われ、それに答えようとすれば、自身の存在の根拠が揺らぐため、絶対にそこには触れさせないのだ。
 不死鳥無き今、既に目的は無く、本来の姿も忘れてしまった今では、ただ保身に力を注ぐしか存在の意義が見い出せない。現状維持が目的なので過去を悔い改める事も、未来の展望も何もない。だから妹紅の質問に即答が出来ない。
 話は単純明快だ。『こうなりたい』『助けて欲しい』『力を借りたい』と望めば妹紅はその通りに動き、実際にそうすることが出来る。しかし、その簡単な事が出来ない。口論に持ち込めれば解決の糸口は見い出せるが、変わりたくないので口論は絶対避けたい。
 妹紅は迷った。邪悪か善良な存在なら、それを逆手に取って逆転させることは出来るが、霊獣は善でも悪でもない。中庸であれば、その時々の気分や損得勘定で動く可能性はあるが・・・。
「(・・・今のキメラにとっての損得は何であろうか?)」
 妹紅はキメラが今何を欲しているのか尋ねた。
「現状に不満はないのか?」
 目の前のキメラは火の鳥単体ではない。多数の神霊の集合体である以上、複数の意志が存在しているはずだ。どれか一つでも具体的な欲求があれば、それを聞き入れ成就させることでキメラを少しずつ分断して解体できるかもしれない。
「・・・。」
 しばしの沈黙が続く。
 妹紅は一つ大きく息を吐いて、目の前のキメラから視線を外すし思案を巡らす。
 火の鳥は慧音と同じ霊獣であり人間にとって絶対的な協力者であり、人間の為に存在していると言っても過言ではない。失えば人間にとって莫大な損失となる。不死鳥復活で世界は再び活性化するが、人類はその余波に巻き込まれ死滅してしまうかもしれない。
「(何としても救わねば・・・。)」
 人間と神との絆が薄れた結果が都合の良い便利な新しい神様の発生を促し、それによって多くの神霊が不要となって姿を消した。この状況は人間が生み出した人災のようなものでもある。ならば人間としてその尻ぬぐいをしなければならない。
 では、その人間とはいったい何だ?人として今しなければならない事は何だろうか?化け物となったこの身にとって自身が人間と胸を張って主張出来る根拠は何だろうか?
 この世界で唯一歴史という概念を持つ人間の強みは、語り継ぎ、記憶を次世代にリレー出来る事である。
 今自分がしなければならいのは、間違いを正し、誤って進む幻想郷の歴史の流れを正道に戻す事である。その鍵になっているのが魔理沙であり、彼女を救う為にその身を焼いてここまで来たのだ。
「(・・・そうか。)」
 火の鳥と不死鳥のことばかりを考えていた妹紅は、ここでふと魔理沙のことを思い出す。不死鳥と魔理沙の件は今まで別個のものと考えていたが、ここでこの二つの事案を同時に処理する案が浮かぶ。 
 今の火の鳥を内包したキメラは、輪廻という概念を取り込んで変態し、不死鳥の真似事をして、自分なりの価値基準で魂の重さを量り選別している。だから、宗教に頼って自分で考える事を止めて無条件に御仏に魂を捧げた一向宗を真っ先に殲滅したのである。
 このキメラは、本体の不死鳥に離脱され、更に妹紅に支配されて身動きが取れない状態ではあるものの、自由が叶えば本能に突き動かされる様に人間の魂の選別をするために動きだすのは必然である。
 キメラが自らに課している使命を魔理沙を使ってやらせればいいのだ。魔理沙の魂は救う価値があるか?と問うのだ。
 判断能力が欠如しているキメラは、生前盗みなど悪行を繰り返してきた魔理沙の魂は救うに値しないと判断するだろう。しかし、救う救わないの是非はこの際問題ではない。
 輪廻を操作出来る火の鳥の本能を刺激し、自ら動こうとしないキメラに自分の意志で動くきっかけを作る事がここでは重要なことなのである。
 その決断を自らした時、火の鳥はキメラから分離する。
 
 問題はどうやってその判断をさせるかである。
 それは魔理沙の魂を天秤にかけて、その救済の是非を問う賭をするしかないだろう。
 火の鳥が本来の能力を持ったままの存在であるなら、魔理沙は優れた才能と能力を持った両親を親に持つサラブレッドだと理解出来るし、周囲の者に大きな影響を与える優れた魂であることと、そして無限の伸びシロを持っている事を見抜けるはずだろう。
 魂の大きさを生前の行いから推し量る事は無意味であるにもかかわらず、現世の行いだけで生かす殺すかを判断する今のキメラの救済基準では、生前多くの悪事を働いた魔理沙は当然黒で、妹紅がそれに非を唱えても聞く耳はないだろう。ではどうやってこちらの言い分を聞いて貰うか?
「(ならば、賭けをするしかないだろうよ。)」
 火の鳥は黒、妹紅は白という対立構造が存在している以上、白黒付ける勝負をするしかないではないか。妹紅はそう結論をだした。
 賭の勝敗自体には意味はない。意味があるのは賭の席に着かせる事である。賭の席に着くという判断を火の鳥自らが決める事でキメラ化させている呪縛が崩壊するのだ。
 問題は、こちらの主張に聞く耳がないキメラをどうやって賭の席につかせるかである。
 妹紅は、この様な無茶な賭を挑み、自らの目標を達成させた前例をそう遠くない過去に体験していた。その時も魔理沙をダシに賭をしたのだ。今思えばあの出会いにもしっかりとした意味があったのである。
 不死鳥が転生した事で妹紅の中の荒々しい炎は消えてしまったが、新たに賭博師の炎が沸々と湧き上がっていた。
 妹紅は目を瞑ると瞼の裏に霧雨魔理沙を映し、彼女の事を一心に思った。
 やがて、自分とキメラ以外しか存在しなかった空間にもう一つの気配が現れた。妹紅はそれを受けて目を開き振り向く。
「魔理沙・・・。」
 選択の間に来れるのはその人物と何らかの強い繋がりが必要で、例えば魔理沙の母サーヤなら母と娘という血縁でその資格を得ている事になるが、他者となると婚姻や恩義による繋がり、或いは義兄弟などの単なる友人よりも上位の絆が必要となる。
 妹紅と魔理沙には当然血の繋がりもなく、親戚同士に繋がりがある遠縁というわけでもない完全な他人である。この2人の間に必要な絆としては友人以上のかなり親密なものが必要である。
 妹紅と魔理沙の絆は不死人狩りの弾幕勝負から始まり、力と美を兼ね備えた理想とする弾幕を体現した妹紅に魔理沙は一方的な憧れという名の好意を抱き、異変開始に際し魔理沙の隠された秘密を知った妹紅は、魔理沙に対し特別な感情を抱いて何かと目をかけて接し、門外不出の万物の属性を見抜く秘具を魔理沙に託していた。
 既に友人以上の親密な関係は築けていたので、妹紅が魔理沙の選択の間に来れる事は何ら不思議な事ではなかったのである。
 今、妹紅の居る間と魔理沙の居る間には2人を隔てる壁はなく、遠くを見通せない広い闇の空間を共有している状態だった。

 魔理沙の居る場所には、床面に人がギリギリ通れるほどの穴がぽっかりと開いており、そこから光が漏れて魔理沙と周辺を青白く照らしている。その魔理沙は座り込んで目の前の穴を身動ぎもせず覗き見ている。
「自分が於かれている状況は理解しているみたいだな・・・。」
 今まで対峙していたキメラに背を向け、こちらに全く気付く様子のない魔理沙を遠目に見る。
 穴から見えるものは紅魔館前の湖畔に横たわる自分を複数の見知った顔が懸命に蘇生作業をしている様子である。この状況を見せられては否応なしに自分が死にかけているという状況が理解出来るだろう。
 一般的に、死んだ人間は選択の間にいる間、この様に動かなくなった自分の体を俯瞰から客観視し、埋葬されるまでの一連の儀式を目の当たりして死を受け入れてあの世に向かう心を決めるのである。今は死亡してからまだ1時間と経っていない状況で、魔理沙本人は困惑して何らかの決断が出来る状況ではないだろう。

 妹紅はキメラに背を向けたまま魔理沙のいる方向に真っ直ぐ歩き出したが、すぐに見えない壁に阻まれた。
「先にこっちをなんとかしなければならないか・・・。」
 取り敢えず今は自分からもキメラからも魔理沙の姿が見えている事が重要だったので、見えない壁を2、3回不満そうに小突いて元来た道を辿ってキメラと正対する妹紅。
 先程までキメラに対し敵対気味に応じていた妹紅は、提案口調に変えて対話を再開させる。
「なぁ、ちょっとした賭をしないか?」
「・・・賭け?」
「どっちが正しいか、賭けをするのさ。」
「賭などする必要もない。どちらが正しいかなど分かり切っている事だ。」
 予想通りの答えに内心満足しながら、表情はそのまま下手(したて)な態度を維持する妹紅。
「お前にとってはそうかもしれないが、私としては納得できない。」
「お前が納得する必要などない。水が下に向かって流れるのと同じように、それは当然の事なのだ。」
 まだどんな賭けかも具体的に口にしてはいなかったが、周囲の様子を見て魔理沙についての事だろうとキメラは目聡く判断していたようだ。
「結果はお前の言うとおりだとしても、私はそれが事実かをこの目で確かめたい。どんな結果になろうとも、受け入れる。そして、私はこの世から去る。」
 妹紅の最後の言葉にキメラは反応した。
「今、私の身体はお前の浄化の炎によって永久に焼かれている。」
 妹紅はキメラを不死鳥と同一の存在として対等を維持しつつも尊大な態度を改め敬意を込めて発言する。
「・・・。」
 それを受けて話を聞く気になったキメラを見て満足しつつ表情はそのままに話を続ける妹紅。
 たくさんの神霊がキメラを構築している以上、霊獣火の鳥ではなく神様の性質も同時に引きずっていると判断した妹紅の態度の変化は功を奏したようである。
「私は不死身の身体を焼かれながら、仮初めの死を体験し、ここにいるというわけだ。」
「・・・。」
「しかし、炎が止めば体は復活し私もその体に戻ることになる。これは私の意志とは無関係で、水の流れと同じ、必然だ。」
 先の発言を引用してキメラの自尊心を刺激する妹紅。
「・・・。」
 キメラは終始無言だったが、時間が経てば妹紅が元に戻ると聞いて、複雑な感情が沸き起こり不満が滲み出る。
 今は不死身の肉体が焼かれ形をなしておらず、その器に何も入っていない空の状態だということが、妹紅の話から確認出来た。今なら交渉次第でその体の所有権を得る事が出来るかもしれないと、これまで全否定してきた妹紅の言葉に関心を示す。
 場が重々しい空気になる。妹紅は警戒を煽らない様に友好的な態度で話を続ける。
「もし、私の賭けに応じるというのなら、その礼にこの体の所有権をお前に譲ろう。」
 妹紅は賭の勝敗にかかわらず賭の席に着くだけで不死身の身体を譲るという宣言をした。これでキメラは失うものが何一つない得るだけの絶対的有利な賭けに挑める挑戦権を得た事になる。
 一見すると無謀な賭だが、これはキメラから火の鳥を剥がす策であり、剥がしてしまえば賭け自体が無意味になるのだ。当事者以外誰でもわかるトリックだが、自分が不死鳥だと誤認している当事者キメラには、このからくりは見抜けるはずはなかった。
「!」
 妹紅は表情を変えないまま心の中でほくそ笑む。体を得ると言うことは自由を得る事であり、キメラはこれを一番に望んでいるのだ。心というものが存在するなら揺れない理由はない。
「馬鹿な・・・体を失えば死ぬということ、死んだら賭けなど無意味ではないか!」
「他人の命の心配などしてもらう必要もないし、そんな義理もお前と私の間にはないはずだが?お前は私の賭けに乗るか反るかだけを選べばいい。選択の猶予は・・・そう、この浄化の炎が消えるまで。」
「むぅ・・・で、その賭けとはいったい何だ?」
 妹紅は『食い付いた!』と一連の交渉で初めてキメラが能動的に動いた事実に勝利を確信した。賭などあくまで火の鳥をキメラから分離させる方便。キメラが自ら決心すればその時点で全てが転換する。
「簡単だ。あそこに白黒の娘がいるだろう?あれは私が特別に目を掛けた将来大物になると予想している娘だ。だが、ここにいるということは、つまりそういうことだ。あの娘をお前の力、輪廻転生で復活させてほしい。」
 輪廻転生は死者を生き返らせる技の名前ではないが、その意味すら忘れているキメラは出来ると信じて疑っていないだろう。妹紅は敢えて自尊心をくすぐる言い方をしてキメラの心の動きに一定のベクトルを与えた。
「何を血迷った事を!あの娘は窃盗、傷害など、様々な悪事を働いてきた。生かす価値などまるでないクズだ。賭けの行方など知れているだろう。」
 流石は輪廻を操作する霊獣火の鳥といったところだろう。何の説明もしていないのに、魔理沙の罪状を理解している。しかし、その更に深層にある魂の質を見抜く力は完全に失っているようだ。
「あの娘がここにいる理由は、そうした悪事とは関係はない別件で、大義の為に犠牲になってここにいる。情状酌量の余地は十分あるだろう?」
 妹紅は思惑が計画通りに進む状況に満足しつつ、必死に魔理沙を弁護する態度で勝利を確信した心の内を擬態する。
「悪事を犯してそれを反省していない心根に代わりはない。不浄な魂が宿っている小娘が、ここで命を救ったとして全うに死ねることなど万に一つもない。」
「その娘を助けようと懸命になっている者が大勢いるのが見えないのか?まぁいい。さっきも言ったが、私はあの娘の行く末を見たいだけだ。」
「死ねば行く末も見えぬであろう?」
 賭のテーブルに着けば全てを得られるキメラは、未だにそれが信じられず、妹紅の行動に合点がいかないと否定し続ける。それに対し妹紅はさも当然と言う顔で涼しく返答する。
「霊となって見守る事くらいは出来る。」
「・・・わからぬ。あの様な愚か者の為に・・・まるで死を望んでいるかのようだ・・・。」
 妹紅はそのキメラのセリフに心の中で同意した。そう、妹紅は死を望んでいる。そして、このような茶番で簡単に死ねるなら苦労はしないと無知なキメラに心の中で吐き捨てる。殺せるものなら殺してみろ・・・と。
「どうする?あの娘の顛末がどうであれ、お前には関係ないだろう?断って自由を得るチャンスを失うか、勝利という結果の分かっている賭に応じ、尚かつ自由も得るか・・・。」
 後者を選ばない理由がないが、この期に及んでも自分で何も決められないキメラに妹紅は助け船を出す。
「この賭けに応じないなら、否と言え。応じるなら沈黙しろ。私が目を瞑ったら選択開始だ。」
 身動ぎもせず強張ったキメラを睨み付けた妹紅は、事実上一つしか存在しない選択を迫った。
「・・・では選べ。」
 妹紅は目を瞑った。
「・・・。」
 暫しの沈黙。
 それは、妹紅の賭けに応じるキメラの答えか、或いはただ何も選べない優柔不断の生んだ産物か。どちらにせよ、この選択肢の与え方はこちらの思惑通りにしかならないはずだった。
 妹紅はゆっくりと目を開いた。
 先程と同じ闇の中にかわりはなかったが、青白く光る自分に照らされる周囲の様子が明らかに変わっていた。
 目の前に光源があり、鳥の形をした朱色の輪郭が妹紅の正面に存在していた。
 先程まで晩秋を思わせるような冷たかった皮膚の感覚が、まるで焚き火にあたっているかのように熱い。
「(これが火の鳥か・・・。)」
 慧音は半人半獣で普段は人の形をしているが、火の鳥は正に鳥そのものの形をしているようである。人に変身出来るなら、どんな姿になるのだろうか?さぞ美しかろうと妹紅は想像を巡らせた。
 こちらに関心の示す強い視線を感じる。その視線に既視感がった。暖かく、優しく、そして力強いあの視線・・・。
「(慧音に似ている・・・。)」
 何故かずいぶんと久し振りに感じる霊獣であり親友の顔が脳裏に浮かぶ。

 キメラ化した火の鳥は、妹紅の不死身の肉体を得る事を選択した。いや、選択させられた。これによって火の鳥はキメラから分離された。
 賭の通りに話が進むなら妹紅の不死身の肉体の所有権は火の鳥に移るところであるが、予想通りそうはならなかった。
 神霊の集合体を異形のキメラにしていたのは、神霊とは相反する存在霊獣火の鳥が混入してしまった為で、この誤りが正された事によってキメラを構成する存在は元の神霊に戻りそれぞれあるべき処に還っていった。
 妹紅と賭をしたキメラはこの時点でこの世のどこにも存在せず、よって賭は相手が消滅した為無効となった。正に計画通りである。
 一つしかない命、一度きりの人生に於いて、自らの命を担保にする賭は、利口な者がする策ではない。これは、自分の命をこの世で最も軽く、安っぽいと認識している妹紅だからこそ出来る賭であった。

 妹紅は一つ大きな仕事をやり終えた気分になり、気が抜けそうになったが、すぐに魔理沙の事を思い出し気を引き締め、同時に火の鳥への関心はそこで切れた。自身真っ当な人間でないと自覚している妹紅だけに、慧音と同じく火の鳥から百や千の苦言を言われそうで、その場から早く退散したかった。
 火の鳥に背を向け、背後にいた魔理沙の方へ歩み出す妹紅。しかし、数歩進むとまた見えない壁に阻まれる。
「くそ!どういうことだ?」
 その時、背後に大きな光源が生まれ影が朱色の光によって浸食されていく。妹紅は驚いて振り向き、そこに存在するものを見て思わず息を止めた。
「こ、これが、火の鳥か・・・。」
 先程と同じセリフを心の中ではなく、声として口にする妹紅。
 そこに居たのは、先程の闇の中に浮かぶ鳥のシルエットではなく、自らが鮮やかな輝きを放つ、極彩色の鳳凰だった。文献や絵の中だけに存在する空想上の生き物が現実に現れたかの様である。
 火の鳥とは言っても不死鳥の様に炎を纏っているわけではなく、炎を思わせる虹色の輝きを自らが放っているのだ。
「美しい・・・。」
 妹紅はそう口にして、それ以外に適当な言葉が見つからずそのまま絶句する。
 不死鳥に比喩され、そのもにも例えられる自分の苛烈な弾幕とは、似ても似付かない美しい姿は例え弾幕であっても簡単に真似できるものではない。
 鶴の様に長く美しい首とずんぐりした胴体は、名陶の創り出す鶴首の花器を思わせる。体の表面を覆うのは軟らかい羽毛ではなく、虹色に輝く三角の小さな羽根が、伝説の竜の体を多う鱗の様に首から胴体まで全体を隙間なく覆っている。
 角の様な飾り羽根の鶏冠と猛禽の様な鋭い嘴だけを見ると鳥というより麒麟そのもだった。
 尾長鶏の様に長い孔雀羽と、時折、両翼を広げて大鷲の様に羽ばたく仕草は、惑う事なき鳥の形で、そのシルエットは燃えさかる炎の様でもある。
 何故、炎を纏っていないのに火の鳥と呼ばれるのか不思議だったが、この姿を見れば誰でも納得出来るだろう。
 神秘的な姿に似合わない優しい円らな瞳は、人間と同じ様に瞼が上にあり睫もある。完全な鳥の顔をしているのだが、普通の鳥と違って豊かな表情があり、人間的な感情が備わっていると確信出来き、それによって強い親近感を覚える。

 妹紅は、魔理沙のところに進めないのは、不死鳥との因縁がまだ完全に終わっていない為だと悟り、先程までキメラ化した不死鳥だった火の鳥の出方を窺う。
「(藤原妹紅・・・。)」
 不意に名前を呼ばれた妹紅。声は音としてではなく、直接脳内に語りかけてくる。女性の声で、脳内で反響するように複数の声が重なって聞こえる感じがする。慧音の様に上から下に向かって話す口調ではなく、八雲紫の様に腹に一物置いている様な策士特有の表向き友好を装った含み口調でもない。
 呼んだ名前の後の微妙な間から、こちらの反応を窺っている様子が見て取れ、自分の言いたい事をズケズケと言う慧音や他の妖怪のタイプとは違う、実に人間らしい態度である。
 妹紅は一瞬戸惑った。こちらに語りかけてくる火の鳥に対しどんな態度を取ればいいのだろうか?先程のキメラは最初は尊大に敵対心むき出しで、後半は尊大なままだが提案を持ちかける側として友好的に対話に臨んだ。
 今目の前にいるのは先程のキメラではなく霊獣火の鳥だ。火の鳥は神霊ではないので媚び諂う必要は特にない。語りかけてきた態度から察するに、傲慢とは真逆の性格だろう。
 神様相手に頭を下げて敬語を使うのは常識だが、霊獣相手なら特に問題ないだろうと、初対面の人妖に応じる姿勢で火の鳥の呼びかけに応える事にした。
「・・・私に何か用か?」
 妹紅は道端で呼び止められた時の様に答えた。
「私は霊獣火の鳥。永きに亘り不死鳥と同一視され混合してしまい、今の今まで正気を失っていました。」
「無事戻れて良かったな。」
 他人事の様に返す妹紅。
「本当にありがとうございました。」
 火の鳥は足を折り畳んで座っている状態だが、それでも鶏冠まで妹紅の背丈の3倍ほどある。その火の鳥の頭が、妹紅に対し、人が人にするように深々と頭を下げる。
 妹紅は思わず恐縮した腰の低い態度になりかけたが、思い留まって平静を装う。大恩を受けて礼を言う側に恐縮すると、その恐縮の態度にも礼が来てしまうので、何時まで経ってもこのやりとりが終わらなくなることを、経験上知っている妹紅は素っ気なく応じた。これで相手に何度も頭を下げさせる必要が無くなり、一番心の籠もっている最初の一礼だけで済む。
「これからどうする?」
 妹紅は知人と話す様に、火の鳥の今後の身の振り方を尋ねてみる。不死鳥は因縁深い相手で言いたい事は山ほどあったが、火の鳥に関しては全くの初対面で、話そうにも何をどう話せばいいのか全く思いつかないので、適当な事を言ってお茶を濁す作戦をとる。
「少しお時間をいただけませんか?」
 妹紅には用事はなかったが、火の鳥には妹紅に用事があるようである。
「私は魔理沙のところに行きたいんだが・・・。」
 遠回しに時間が惜しい事を火の鳥に伝える。
「残念ながら彼女の選択の間に行く資格は貴女にはありません。」
「そ、それは本当か?」
 火の鳥が嘘をつくわけがないと分かっていたが、衝撃的な告白に妹紅は驚いて声を上げた。魔理沙の選択の間に行けなければ生き返す事が出来なくなってしまうではないか!
「藤原妹紅と霧雨魔理沙を結びつけている一つの大きな要因が、不死鳥をモチーフにした技の数々です。」
「なるほど、そういうことか・・・。確かに不死鳥の力を失った今の私じゃ・・・。そうだ!あんたには出来ないのか?私を向こうに連れていけないか?」
「私が直接そちらに行って彼女の前に姿を見せる事は出来ますが・・・。」
 妹紅は対話しながら、火の鳥の話方が、決戦後変質した永遠亭の八意永琳に似ていると思い始めていた。
「・・・この際しかたがないか・・・。」
 自分が魔理沙の背中を押すより、火の鳥が行って魔理沙を諭す方が良いだろうと、前向きに考える妹紅。
「そういえば、さっき時間をくれと行ってたな、そっちを先に済ませよう。」
 妹紅が頼む側になってしまったので、まず火の鳥の要求を呑むのが筋と話を聞く態度になる。
「それには及びません。既に私の願いは聞き入れてもらっています。」
「そうか、時間って、魔理沙の件で話がしたかったのか・・・余計な手間とらせてすまない。」
 火の鳥は、最初から妹紅の目的達成の助力になろうとしていたのだ。
「私が向こうに行ってもかまいませんが、それより、ひとつ提案があります。」
「提案?よし呑もう。」
 妹紅は提案内容を聞かず、提案を受け入れた。火の鳥には問題を解決するベストな方策があるのだろう。人間の絶対の味方である霊獣に全てを任せるのが一番なのだ。
 火の鳥は妹紅の提案受領の意志を受けると、静かに目を閉じ何かを思案するような表情をとる。そして、すぐに目を開いて妹紅に視線を向ける。
 それ以外に何かをした様子はなかったが、明らかに何かをしたようで、その変化はある人物の到来という形ですぐにあらわれた。
「呼ばれて、飛び出て、ジャジャジャジャーン!ハーイ!妹紅!お久し振り!あ、久し振りってほどでもないかしらね?」
 黒を基調とした衣装に美しい金髪のコントラストがどこから沸いたのか目の前の空間から突然現れる。見覚えのある姿だが、その場違いな程に明るく敬白なしゃべり方には全く記憶にない。
 妹紅は半分引きつった表情のまま尋ねた。
「あ・・・あの・・・どちら様でしたっけ?」
 どんなに記憶を辿っても姿と声に一致する人物が見当たらない。外見的には魔理沙が一番近いのだが、当の魔理沙は小さく向こうに見えるし、年齢が明らかに違う。悪い言い方をすればおばさんだ。愛想良く振る舞う謎の人物の態度から、明らかにこちらを知っているようで、しかも、かなり親密というか、ただの知人という間柄ではない感じだ。
「あら、やだ。忘れたの?わたしよ、サーヤよ、サーヤ!」
「はぁ?さ、サーヤって、あのサリマンのことか?えぇ?マジで?」
 名前を聞いて誰か直ぐに分かったが、姿はともかく西洋墓地で会った時とあまりにも口調が違うので、完全に頭から抜け落ちていた。
「魔理沙の実の母親であるサリマン・クロイツは、藤原妹紅に大恩ある身。魔理沙と藤原妹紅を結ぶ接点になります。彼女を経由すれば魔理沙の選択の間に行けるでしょう。」
 間の抜けた会話を遮る様に火の鳥が冷静に魔理沙の母親をここに呼んだ理由を教える。
「西洋墓地で捕らわれていた時は魂が萎縮して、か弱い少女の様だったけれど、これが本来の私の姿。」
 はしゃいでいた態度を少し改め、真面目な表情で説明するサーヤ。最初からそうしていれば、直ぐにわかったのにと心中で苦情を表す妹紅。
「と、言っても幻想郷で霧雨の家に嫁いだ時は借りてきた猫の様に大人しくしていたけどね。」
 幻想郷入りしたサーヤは風見幽香との戦闘に敗れ、その後マルキに身を寄せ、当時若旦那だった魔理沙の父と結婚する。幻想郷に恭順の意志を示したサーヤは、自由奔放な生来の気質を抑えて、店の評判を落とさない様、努めて良き妻を演じた。
 その当時人間の里に蔓延していた強い陽気に当てられ身体が丈夫になる里の住人とは裏腹に、陰の力を持つ魔法使いは身体が弱くなってしまい、魔法使いは廃業しており、魔理沙はそんな折りに生まれたわけである。
 サーヤはあらゆる障害から開放され、霊体になりながらも生き生きとしていた。初対面の時は魂を他者に握られており、弱々しく本当にこれが魔理沙の母親なのかと思ったものだが、今のサーヤを見ると、なるほどこの親にしてこの子ありと思える。
「しかし、吸血鬼の心証得たり、火の鳥を掌中に収めるとは流石よね・・・。」
「火の鳥とは初対面よ。別に私とは関係ないわ。」
 キメラとの交渉から続いていた戦闘モードの吊り上がった眉が下がり、口調が柔らかくなる妹紅。
「そのことですが、藤原妹紅・・・。」
 2人の会話に火の鳥が控えめに割り込んだ。
「ん?」
「どうか私を支配していただけないでしょうか?」
 不意に驚く要請をされる妹紅。ホウキこそ持っていなかったが、黒いローブと黒いとんがり帽子の魔法使いがはやし立てるような口笛を鳴らす。
「支配?」
「二度と不死鳥とのキメラにならないように、永遠の命を持つ貴女の中に私を隔離してほしいのです。」
「そういうことか・・・。でも、相手を力でねじ伏せて言う事を聞かす事は可能かもしれないけど、それだと貴女は自立できないわ。都合良く独立した個を一つの体に閉じこめる事なんて私には出来ない。」
「支配した後、乗っ取った力を利用して妹紅が火の鳥の替わりに輪廻を司る仕事をすればいいのでは?」
「はぁ?そんなこと出来るわけないでしょう?」
 サーヤは妹紅自身が火の鳥になってしまえと挑発するが、妹紅は断固否定する。
「人間の心を持ち、永く生きて世界の理を知る者なら、何をすべきかは自ずと分かります。私でなくとも、輪廻を操作し必要な時に必要な魂を現世に召喚することは可能です。」
「出来たとしても私はそんなことやるつもりはない。」
「何で?輪廻を操れれば、実質人間界を支配したも同然でしょう?面白そうじゃない?」
 真理や力の探究心に底がない魔法使いらしい意見だと妹紅は思うが、如何せん自分は魔法使いではない。力を持つ側の重責や苦労を知る妹紅としては、火の鳥の申し出はありがた迷惑の何者でもなかった。
「仮にその能力や資格があったとしても、私には甲斐性がない。そんなにやりたいなら替わりにやったらいい。」
「生憎、こちらは当の昔に肉体とやらを無くしたものでね。」
 サーヤは肩をすくめて、妹紅の甲斐性の無さに降参の意を示して嗾けるのを止める。
「そっちが勝手に私の中に入る事はできないの?私の中には色々居るけど普段自覚症状はないし、ついでに貴女も間借りすればいい。」
「簡単に言うけど、それって支配するより難しいんじゃないの?」
「私は魔理沙を助けた後、このまま此処(『選択の間』)で暫く休眠するわ。先に中身のない空っぽの肉体だけが復活すると思うから、そこに入ればいいのよ。不死鳥もそうやって空っぽだった私の身体に入ったんだから。」
「なるほどねー。」
「分かりました。そうさせて頂きます。」
 妹紅とサーヤのやりとりを黙って聞いていた火の鳥は、少し残念そうに妹紅の申し出を了承した。
 不死鳥と火の鳥とのキメラを解体した妹紅の功績は表立つ事はないが、世界規模の広い観点で見れば大変大きな功績といえる。その功績と自身を救い出してくれた恩に報いたいと思う火の鳥であった。
「さて、下で苦労してる連中を早く楽にしてやらないと・・・。」
 妹紅はそう言って火の鳥との会話を打ち切り魔理沙の方へ歩み出す。未だレイセン達は魔理沙蘇生を諦めていなかったが、それもあと数分の事だろう。
 火の鳥は何か言いたげであったが、何も言えず残念そうな表情をする。鳥の顔なのに、その表情は人間のソレと同じである。サーヤはそんな火の鳥を見て、少し考え事をする表情を作り数秒思案に耽る。そして、何かを思いつくと少し進んだ妹紅を呼び止める。
 不満そうな顔で戻って来る妹紅に、サーヤは別れの挨拶を忘れていた事を告げる。
「もう、逝くのか?最後に魔理沙に会わなくていいのか?」
「ここで会っちゃうと、未練が残るでしょう?あの娘も私も・・・。」
「そうか・・・亡霊として第二の人生を歩むという選択肢もあるけど・・・。」
「大魔導師魅魔の様な生き方は私には到底出来ないわ。それに、彼女の様に死んでも死にきれないような、そんな未練は私にはないもの。とても素晴らしい人生だったと思っているわ。」
 サーヤはそう言って妹紅に抱擁した。背の低い妹紅は少し体を反らして抱擁を返す。
「サーヤとはもっと色々話したかったな。」
「大丈夫、貴女が生きていれば、何度だって会えるわ。」
 2人はしばらくそうした後、ゆっくりと離れた。そして妹紅は後ろ髪引かれる思いで魔理沙の元へと歩き出した。
「さて・・・と。」
「もう・・・逝きますか?」
 火の鳥が問う。
「ふふ・・・。」
「?」
 しかし、そんな不死鳥を前にいたずらっぽく笑みを浮かべるサーヤ。
「火の鳥さん、ちょっとお話しがあるの。妹紅に少しでも恩を返したいのなら、聞いて置いて損はないわよ?」
「・・・分かりました。聞きましょう。」
「ふふふ、妹紅、私がそう簡単に逝くと思ったら大間違いよ。」
 魔理沙の母親は、やはり魔理沙の母親だった。
東方不死死 第75章 「消える命」

 不死鳥の転生によって生じた漂白の世界は、霊夢の創り出した境界線の向こう側でが衰える様子もなく、今もそこに有り続け、終わりが全く見えなかった。
 想像を絶する凄まじい熱によって生み出された白光は、まるで太陽が間近にあるような錯覚すら覚えてしまう。しかし、霊夢の紅い結界を透過した眩い光は、程良く中和され、幻想郷は隅々までほんのり桃色に染まり、空想の中でしかその存在を見たことがない桃源郷の景観を再現しているかのようである。
 一時戦場と化し、大地に無数の屍を曝した幻想郷は今、不思議な安堵感を漂わせていた。

 そんな幻想郷とは裏腹に、悲壮感と絶望感に苛まれた仄暗い場所がある。異変を解決しようと有力者が多数集った紅魔館の作戦会議兼指揮所のある小さなバルコニーである。
 紅魔館に置かれた異変対策作戦会議は、どんな異変も簡単に解決してしまう様な、幻想郷内外の超大物達の顔が並び、ある種の無敵感に支配されていたが、いざ異変が始まると様々な想定外に即応出来ず後手後手に回る無様な結果だけを残してしまい、今そこにあるものは無力と焦燥が合わさった終末感だけだった。

 会議から選出された主要人物の中で、目に見えて幻想郷に影響を与え続け、辛うじて会議の体裁と面目を保っているのが藤原妹紅と博麗霊夢の二人の人間であるが、今彼女達はそれぞれの任地に赴き、与えられた任務を全うしているため、その姿はここにはない。
 作戦進行の鍵を握るスキマ妖怪八雲紫は、会議の場にはいるものの、先程から続く失態の所為で既に存在感が無く、指揮官のレミリア・スカーレットなども序盤の失態を挽回はしたものの異変に対して直接何か手を打てるカードは無く、現状をただ見守るしか出来ない存在でしかなかった。 
 会議の主要メンバーとして選出されたものの、負傷療養という理由で参加していなかった部外者扱いの風見幽香が、一人気を吐いて墜ちる鋼鉄の塊に一矢報い、更に巨大なひまわりで幻想郷の危機を救う離れ業をやってのけた為、尚更会議の存在意義も薄れてしまったと言える。
 最強の妖怪風見幽香の活躍は幻想郷に生きる妖怪達の記憶に深く刻まれ、人間達の歴史に永久に語り継がれる事になるだろう。

 今現在会議の場には、紅魔館のレミリア・スカーレット、パチュリー・ノーレッジ、十六夜咲夜と、作戦立案と実行に深く関わった八雲紫と藍、そして冥界からの協力者として参上した閻魔の四季映姫と部下の死神小野塚小町、白玉楼の西行寺幽々子、更にこの異変の前兆から関わりそれらを逐一報道した新聞記者の鴉女天狗姫海棠はたての計9名がいる。
 会議発足当初はこれに加え、博麗神社の巫女博麗霊夢と守矢神社の2柱、洩矢諏訪子と八坂神奈子、異変の元凶とも言える永遠亭の八意永琳と付き人のレイセン、作戦の中核の一翼である藤原妹紅と風見幽香の代役として抜擢された人間の魔法使い霧雨魔理沙、そしてゲスト参加の人形使いアリス・マーガトロイドと河童の河城にとり、主催の妹フランドール・スカーレットの計19名がいた。
 先程湖面に上がった巨大な水柱が、結界の向こうから脱出した霧雨魔理沙によるものだと判断し救助に向かった数名が、会議から離脱したので発足当初の人数から半減以下となったわけである。


 霧の湖湖畔。

 紅魔館前の湖畔には自分の伸ばした手の指先すら見えない程の濃く冷たい霧が立ち込めていた。
「魔理沙はどこかしら?」
 湖岸に誰か立っている気配を感じた永琳は、魔理沙の捜索に先に飛び出した河童の娘か人形使いのどちらかと判断し、側に降りて訪ねてみたが、声に出しての返答はなく、首を横に振る朧気な影を見て現状を理解する。
 レミリアの妹フランドールもいつのまにかそばにおり、皆肉眼では見えない湖を感覚を研ぎ澄ませて捜す。
「たぶん、ニトリが水中を捜してると思う・・・。」
 その声は、永琳の側に立って湖岸を眺めていたのはアリスだった。
 一番最初に動いたニトリに続いて後を追ったアリスは、何者かが水に飛び込む音を聞いていた。恐らくニトリで間違いないだろう。餅は餅屋ではないが、水の中は河童に任せるのが正解であると、ここで様子を見ていたのである。
「・・・。」
 アリスは自分が行って水中を探索しても無意味だろうと頭では分かっていても、今すぐ湖に飛び込みたい心境で、同時に、何故そこまでして魔理沙の安否を気にするのか自分でも理解出来ずに戸惑ってもいた。

 数億度に及ぶ浄化の炎に対するカウンターの様に溢れ出した冷気。それが収まってもなお、周囲の気温を氷点下近くまで下げていた湖から発する冷気は間もなくおさまり、不自然な湖面のさざ波が静かに凪ぎ始めると、それに合わせるように霧も足早に薄れてゆき、数分後には数メートル先の各々の顔がはっきり認識出来るまでになった。
 そうなって初めて、湖畔の浅瀬に誰かが立っているのに皆気づき、その独特のシルエットから河童の河城ニトリであることがすぐにわかった。
「ニトリ!・・・うっ!」
 駆け寄ろうとして湖面に一歩足を踏み入れたアリスは、そのあまりの冷たさに思わず二の足を踏んでしまう。
 浅瀬に腰まで浸かったニトリは、虚ろな表情でブツブツと何かを呟きながら、それ以上陸に上がろうとしない。凍えて動けないという様子でもないニトリだが、暫くその様子を観察していると、何か大きな物体を右手に掴んでいるようで、黒と白、金色のコントラストからそれが人間の魔法使い霧雨魔理沙であることに疑いの余地はなく、湖岸に居た数名は口々にニトリの名を呼で、こちらに来るよう促した。
「ニトリ!はやく魔理沙を!」
 心臓が停止し息が止まっていても、素早く蘇生活動を行えば命は助かると、アリスは陸の上からニトリを呼ぶ。しかし、ニトリはお地蔵様の様にピクリとも動かない。
「うどんげ!」
 呼ばれるのを待っていたかのように師の呼びかけに力強く頷いたレイセンは、体の温まる錠剤を呑み込んで、火照った身体でざぶざぶと勢いよく水しぶきを上げながら浅瀬を走りニトリに近づく。
 永琳はニトリが親友の死に直面し心神喪失状態になっていると判断し、弟子に魔理沙の亡骸を取りあげるよう指令を出したのである。
 師匠と阿吽の呼吸で動いたレイセンは、虚ろな顔をするニトリの前に立つと、彼女が右手に掴んでいる魔理沙の衣服に手を伸ばす。
「だめ!陸に上がったら魔理沙が死んじゃう!」
 それを察知したニトリは突然スイッチが入った様に叫び出し、レイセンの手から魔理沙の死体を必死の形相で遠ざける。
「え?」
 どこからみても肉体的には既に死んでいる魔理沙だが、ニトリはまだ生きていると勘違いしている。いや、勘違いというより現実を受け入れられず、生きていると思い込んで何とか精神のバランスを取っている様である。
 困惑したレイセンは、一度師匠の八意永琳の指示を伺う為に振り向く。すると、永琳は自分の瞳を指で指すジェスチャーをする。
「(なるほど!)」
 狂気の瞳でニトリを催眠状態にすべしという師の有り難い助言を受けたレイセンは、すぐにそれを実行した。
 紅い瞳の影響を受けて動かなくなったニトリの右手から魔理沙の衣服を外し、遺体を水中においたまま浮力で軽くなった魔理沙を引いてそのまま浅瀬を戻る。
「(!・・・なるほど・・・。)」
 この時レイセンは、何故ニトリが陸にあがると魔理沙が死んでしまうと言った意味を理解出来た。魔理沙の首は完全に折れて、本来なら曲がらない方向に頭部が折れ曲がって水の抵抗を受けてバタバタと暴れている状態だったのである。
 ニトリは、浮力がかかる水中なら重い頭も浮いて元の位置付近に安定するが、陸に上がって重力に晒されれば首がもげて地面に落ちてしまうと思ったのだろう。人間の感覚だと首が折れた時点でアウトだが、妖怪の感覚だと首と胴が物理的に繋がっていればセーフというわけである。
「師匠!首が完全に・・・。」
「欠損してなければ万能薬で全て元通り復元出来るから大丈夫よ。」
 冷静に対処する永琳とレイセンを横目に、湖から引き上げられた冷たく動かなくなった魔理沙と対面したアリスとフランドールは最悪の結末に総毛立ち呆然と立ち竦んだ。
「うどんげ、ついでにあの娘も連れてきて。」
 浅瀬で立ったまま生前の魔理沙と楽しく遊ぶ夢を見せられているニトリを指さす永琳。薬で水の冷たさを感じなくなったものの、衣服が濡れるのは嫌で速く陸に上がりたいレイセンだが、師に言われて渋々浅瀬に引き返す。
 見た目はそれほど大きくはないが、様々な道具を衣服の裏に忍ばせているせいかやたら重いニトリを、術が解けないよう優しく、所謂お姫様だっこで陸に揚げて乾いた場所に寝かせるレイセン。
 永琳は準備していた人間に使えば強すぎて即死してしまう妖怪用に濃度を上げた鎮静剤をニトリに注射し眠らせる。
「この娘はひとまずこれでよし・・・と。うどんげ、魔理沙の肢体を整えて。」
 魔理沙は全身複雑骨折状態で、特に下半身の骨がズタズタに砕け散っている。陸に揚げ寝かせた時は、肢体が軟体生物の様にぐにゃぐにゃになっており、元の人間の形に整形する必要があった。
「今やってます!・・・と、こんな感じでいいですかね?」
「うん、上出来ね・・・あら?そういえば・・・妖精がいたような・・・。」
 唐突に魔理沙の背中にくくりつけられた氷の妖精を思い出す永琳。
「あの妖精なら無事よ。紅魔館の冷蔵庫に入れておいたわ。」
 永琳の疑問に答えたのは魔理沙の安否が気になってやって来た、紅魔館の参謀パチュリー・ノーレッジだった。
 氷の妖精チルノは魔理沙と共に水面と激突したが、魔理沙の後背にいたので奇跡的に即死を免れる事が出来きた。
 激しい水面との衝突で魔理沙との結束が外れて水面を漂っていたところを、いつも一緒にいる妖精仲間に発見され、そこを通りかかった紅魔館の門番、紅美鈴が引き取ってメイド長の十六夜咲夜に相談したところ、氷の妖精だから冷やせば直るだろうとのパチュリーの助言を受けて、紅魔館の冷蔵庫に入院させたというわけである。
「あ、あの・・・それより、魔理沙は大丈夫なの?」
 これが予め仕組まれた死であることを知っているパチュリーだが、ぶどう色に変色した魔理沙の顔色を見てしまうと正直冷静ではいられない。
「大丈夫じゃないけど、たぶん大丈夫、助けるわ!」
 レイセンが根拠のない自信に満ちた希望的観測を返すが、声に力があり不思議な説得力があったのでパチュリーはそれ以上何も言えず、師の八意永琳に向いて冷静な意見を乞う。永琳はそれを受けて事細かく魔理沙の死因と死体の状態を説明しはじめる。
「首は完全に折れているけど、頭蓋はほぼ無傷。首の骨折はどうやら水面と激突してなったものではなく、落下のGによるものね。恐らく瞬間的に加速してそれで首が折れてしまったのでしょう。下半身はほぼ全体が粉砕骨折。上半身が軽傷なことから下半身から水面に激突してるわね。」
 ホウキにまたがったまま真下に落下し、上半身は風圧で仰け反らした状態で下半身から入水したと分析する永琳。背中の氷の妖精は、魔理沙が盾になって即死を免れたと見ている。
「それって・・・助かるの?」
「救護班としての役割を全うする為にここにいるのよ。」
 永琳がパチュリーに説明している間に、レイセンが大きな注射器に液状万能薬を注入しそれを師匠に手渡す。
 パチュリーは、手際の良い師弟の動作を見ながら、これ以上は邪魔になると判断し一歩下がって注意をアリス達に向ける。河童のニトリが仰向けに寝かされ、死んだ様に目を瞑っているが目に入った。恐らく魔理沙の死に直面しショックで気絶でもしているのだろう。その側でアリスとフランドールが所在なげに蒼い顔をしている。
 こうなる事を予め知っていたパチュリーだが、それを知らされずこの状況に直面していたら自分もこの2人と同じ様になっていたかもしれない。いや、喘息の発作が出て河童の隣で一緒に寝かされていたかもしれない。

「最終チェック。間接の方向間違えないでね?逆だと体が戻る時に危険よ。」
 万能薬は、肉体をDNA情報に従って瞬間的に再形成する薬効があるが、その即効性が仇になって、再形成中に凄まじい運動エネルギーが働いてしまうのだ。バラバラになった骨を適当に配置した状態で、この薬を用いれば、骨が元の位置に戻る際に肢体と連動して手足が鞭の様な動きをして周囲にいる者を打ってしまう可能性があり、人間なら即死しかねない程大きな力が働くのである。
 妹紅の新しく得た再生能力もこれと類似しているため、彼女はこれを逆手にとってわざと腕を折って戻し、その戻るエネルギーを攻撃に応用したりもする。
「大丈夫です。私は離れてますから。あはは。」
 レイセンは苦笑いを浮かべながら手をひらひらさせ、危険な役目を師匠に押し付け、一端魔理沙の死体から離れる。
「全く・・・。」
 命じなければ何もしない何もできない、この場合、退けと言われるまでぼーっと見てるかつてのポンコツ兎が、こちらの指示の先の先を読んで行動している。永遠亭の者にとっては信じがたい光景だが、周囲の者にはそれが普通の様に見えているのだろう。
 バラバラになった肉体を万能薬で強制的に修復するのは危険が伴うので、不死身の自分がやるのが正解で、そこは特段感情的になる必要はない。しかし、こちらが命じるより先に動く最近のレイセンを見るにつけ、『彼女らしくない』と、釈然としない憤りにも似た微妙な感情を覚えるのだ。
 これまで感情とは常に単純かつ単一で、一方向のベクトルしか発生しないと思っていた永琳だが、いくつものベクトルの異なる感情が同時に働き始め、それが奇妙に絡まって言い表せない感覚を生み出し、精神的なストレスになる事を最近知った。
 その感情の起伏はこれまで不要なものとして機械的に抑制していたが、最近はこの居心地の悪い感覚を敢えて受け入れている。妹紅との戦闘における敗戦以降、若干情緒不安定になっているのはこのせいである。

 永琳は気を取り直して、弟子から渡された大きな注射器を服の上から魔理沙の胃に突き刺す。液状の黒い万能薬が体内に押し込まれていき、全て注入されると魔理沙の肢体が一瞬痙攣し、肉体は一先ず完全に元通りに修復される。
 修復の際に魔理沙がおかしな動きをしなかったということは、正しく肢体を整えていたことであり、いつもどこか抜けていて失敗するレイセンの仕事とは思えない完璧なもので、これは素直に賞賛出来た。しかし、何故か悔しいという感情が表れ、普段なら義務的に行う賛辞の言葉も大人げなく呑み込んでしまう永琳だった。
「やったっ!」
 そんな師匠の思いを知ってか知らずか、ほぼ満点に近い自分の仕事振りに自画自賛の声を上げるレイセンだった。

 心肺停止状態の人間を蘇生する場合、酸素を身体中の細胞、特に脳へ送るため、人工的な血液の循環を造らなければならない。酸素を送るため口から口、肺へと息を吹き込み、止まった心臓を圧迫して無理矢理心拍を作り出す原始的なやり方が、高度な最新医療施設の調っていない幻想郷における現時点のベストといえた。
 永琳はまず帯電させた両手を魔理沙の胸部に宛い電流を送り、冷水に曝され冷たくなった魔理沙の筋肉を強制に動かし体温を上げてやる。電気ショックで大きく身体が跳ね上がる魔理沙。あわよくばここで心肺機能が復活すれば良いと思ったが、残念ながらそれには至らず、本格的な蘇生活動に移る。
「私からやります。師匠は心臓を。」
 すっかり頼もしくなった弟子に指示されるまま、永琳は魔理沙の横に膝立ちし、心臓付近に両手を宛う。レイセンが10回程口から息を吹き込み、その後永琳が止まった心臓を圧迫して血流を促す。これを1セットとして、交互に繰り返し、20セット毎に持ち場を交代する。
 そんな作業が淡々と繰り返されたが、魔理沙の息は一向に吹き返さない。

「おかしい!とっくに息を吹き返してもいい頃なのに!」
 レイセンが一向に蘇生する気配を見せない物言わぬ魔理沙に、やり場のない憤りにも似た感情をぶつける。患者にあたるのは医療に携わる者にとしては失格だが、この場にいる者は皆レイセンに共感していた。
 永琳は時折電気ショックをはさみながら、脳波を計り回復の兆しを伺う。
 魔理沙の蘇生を始めたのが10分前、心肺停止したと思われる着水から計ると約15分というところである。時間的にこのくらいの時間は十分蘇生出来る範囲であり、蘇生の処置の仕方も完璧であり、まだまだ諦める時間ではない。湖から引き上げた時のぶどう色だった顔色もだいぶ元に戻り始め、蘇生は間違いなく上手くいっているはずだ。
 息を吹き返さない原因が他にあるとすれば、魔理沙の魂が既にあの世とやらに旅立ってしまったか、霊的且つ外的な要因、例えば何者かの意志によって意図的に復活を妨げられている、などである。
 心臓を圧迫するのも、人工呼吸をするのも、全身全霊を込めた重労働である。流石の妖怪も10分これを休まず繰り返すのは疲れる作業で、気温が氷点下に近いにも関わらず、永琳とレイセンは共に汗だくになっている。
 この作業を傍らで見ていたパチュリーは、あの世の手前で魔理沙と妹紅が対面していると踏んで静観している。いつ魔理沙が復帰出来るかは、正に魔理沙次第であるが、その間蘇生活動が続けられ魔理沙の肉体を維持し続けなければならない。
 パチュリーはこの作業が止められない様に監視する役目があり、今はまだ大丈夫そうであるが、この後、更に時間が掛かるような事があれば、永遠亭の2人は蘇生を諦めてしまうかもしれないので引き続き監視する。
「よく、冷静でいられるわね。」
 魔理沙の様子を無表情に眺めながら頭の中では必死に魔理沙の復活を祈っていたパチュリーは、不意にアリスに話しかけられる。フランドールがいつの間にか腰にひっついてシクシク泣いていたが、アリスもそれに負けず劣らずの今にも泣き出しそうな酷い顔になっている。
「貴女も魔法使いの端くれなら、もっと感情を上手く制御すべきだわ。」
 魔法使いは斯くあるべきという覚書が幻想郷に存在しているわけではないが、一般的に頭脳派と大別される魔法使いは、常に冷静であるべきであり、今のアリスはその意味で魔法使い失格に見えた。
 パチュリーは魔法使いらしく冷静な態度でアリスを針で突くように意地悪くたしなめた。これが普段通り会話であれば、嫌味の倍返しが返ってくるところだが今は違っていた。
「別に嫌味を言ったわけじゃないわ。単純に凄いと思っただけよ。」
 パチュリーの冷静さに裏があることを知らないアリスは、ままならない自分と対照的なパチュリーに対し、純粋に感嘆の意を向けただけなのだが、普段こんな素直な感想を口にしない為、嫌味に聞こえて気分を害させたと思って言い直した。
 アリスとパチュリーはご近所同士、同業者ということで交流があり、双方にとってまともに魔法の話しが出来る数少ない友達以上、親友未満の間柄なのである。とは言っても会話の内容は常に皮肉たっぷりで、外からみれば口喧嘩のように見えるのだ。
 パチュリーは自分が全てを知っている立場であることを棚に上げてアリスに普段通りに応対してしまったことを後悔し、側に寄って落ち込むアリスの手を握る。
「私も恐ろしくてさっきからこうなのよ・・・。」
 全て知っているとは言え、この状況に平静でいられないパチュリーは先程から手の震えが止まらないことを教えてやる。
 握ってきたパチュリーのか細い手が小刻みに震えているのを感じたアリスは少し落ち着く。動揺が表に出ないだけで、実際はかなり動揺しているようで、そこは自分だけではないと安心したが、動揺が表に出てしまうのは魔法使いとしてはまだまだ未熟だと反省するアリスである。
「ねぇ、魔理沙は死んじゃったの?」
 パチュリーの腰にしがみついて顔を埋めていたフランドールが、顔を上げて自分の問いを否定して欲しいと懇願する。
「魔理沙の事だから、きっとどこかで寄り道して遊んでるのよ・・・。」
 堅い笑顔で応じるパチュリーだが、その言葉に妙に説得力があったのでフランドールも少し落ち着いて無理矢理作った笑顔で応える。
 そうこうしている内に魔理沙の蘇生開始から15分が過ぎ、その作業に携わる者達の表情に疲労と焦り、そして敗北感が漂ってくる。
「何でよ!」
 一際大きな声が湖に木霊する。
 レイセンは一向に息を吹き返さない魔理沙に問いかけるが、当然何も返ってこない。
「そろそろ20分ね・・・この辺りから蘇生率は急激に下がるわね・・・。」
 レイセンもそれを分かっているからこそ、悔しくて声を張り上げてしまったわけだが、永琳はあくまで冷静で、感情に流され天を仰ぎ人工呼吸を一端止めるレイセンとは裏腹に体重を掛けて魔理沙の胸を押す蘇生作業の手は休めない。
「もうやめる?」
 手を休めている弟子に、師は否定されるのを分かっていて敢えて尋ねてみる。
「止めるわけありませんよ!」
 目の前の消えゆく命を諦めないレイセンは、師の挑発にまんまとのり、諦めと憤りの感情を前に進む力に換える。自然と溢れて頬を流れ落ちる涙を拭い、人工呼吸を再開するレイセン。
「うどんげ、続けながら聞いて。」
 師の呼びかけに口が塞がっているレイセンは目で応える。
「通常の蘇生作業なら問題なく息を吹き返せると思うし、ダメな場合でも30分位でだいたい区切りをつけるわ。ここまでは誰に頼まれなくとも救助班である以上、義務として必ずやること。」
 作業を続けながら目はずっと師を見るレイセン。
「それが分かっていて敢えて私達に魔理沙の身体を託したか、その意味分今の貴女にならかるわね?」
 永琳は敢えて誰がとは言わず、意図的に周囲の者には話しが見えないようにする。
 レイセンは人工呼吸を止めて腰を上げ、師匠に持ち場の交代を無言で促す。素直にそれにしたがった永琳は魔理沙の口に息を吹き込みながら弟子の答えを待つ。
「・・・何時間、何日経っても私は諦めません!」
 永琳とレイセンの一連の会話は裏の事情を知る者以外意味不明だが、ここでそれに該当するのはアリスだけであり、眠っているニトリや幼いフランドールには、意味を探る以前の問題だった。

 八意永琳は、この異変の最中に魔理沙が死に、そして生き返るという一連の作業が、妹紅の描く完全勝利のシナリオの絶対的必要条件と捉えている。それらが今正に粛々と進行しているのだ。
 懸命の蘇生作業にもかかわらず、一向に魔理沙が息を吹き返さないのは、こちらの不手際ではなくこの状況そのものが想定されていたものであり、自分達に与えられた使命は何時でも魔理沙が息を吹き返せる様に、魔理沙の肉体を維持し続ける事なのだ。
 直接妹紅からオーダーを受けた弟子のレイセンにもそれは既に理解出来ている様で、生き返るまで延々と蘇生作業を続ける意気込みという形で、先の質問の答えとして受け取っている。
 ただ、レイセンは何時間でもというが、物理的にそう永くこの状態を維持出来るわけではない。
 手動で酸素を循環させているとはいえ必要な栄養や水分、有害な毒素を外に出す排泄等も含めると、それなりの設備が必要で、この様な設備は蓬莱人には必要なく永遠亭にも存在しない。そんな永遠亭にそれらの設備が備わったのはこの異変で、魔理沙の蘇生に関わった後である。
 この状況から考えてもタイムリミットは1時間、20分が既に過ぎているので残り時間は40分ほどである。 万能薬は肉体の損傷を強制的に治癒させる力はあるが、壊死の進んで有毒な物質に変わる組織や、腐り始めた腸内物を元に戻すことは出来ない。そもそも死んだ魔理沙に万能薬が効いたのも生命活動に働きかけ治癒促進の機能が働いたのではなく細胞の強制復元という機能が働いたためである。
 病気や怪我が元になった肉体の損耗には外科的手術や薬の服用が必要となるが、これは生きている事が前提の治療法であり、何をするにも魔理沙の心肺機能が回復されなければならないことだった。
 
「私達に何か出来る事は?」
 短期決戦モードになった永遠亭の2人に、協力を申し出るパチュリー。先を越されたアリスも次いで一歩前に出る。
「私達のやってることを少し観察して、結構重労働だから後で交代してもらうかもしれないわ。」
 永琳は申し出を快く受け取り、一先ず血圧を見て貰う。手首の触診だけでは分からないほど血圧が低く、それを聞いてレイセンは魔理沙に馬乗りになって全体重を乗せて胸部を圧迫する。一見すると肋骨が折れそうな勢いだが、そのくらいやらないと血液は身体中に行き渡らない。
「これでは埒が明かないわね・・・。」
 肉体的な損傷は後でどうにでもなると考えた永琳は一つの有効的な手段を思いつき実行に移す。
「このままでは1時間も持たないわ。胸を開いて直接心臓を圧迫しましょう。」
「え?」
 驚くアリスとパチュリーだが、元軍人、狙撃手として人体の組織構造を理解し、その知識によってあらゆる殺傷技術を修得しているレイセンは、胸部の圧迫より直接心臓を圧迫する方が効率的だと師の提案に賛成する。
「2人は服を。」
 手持ち無沙汰のアリスとパチュリーに開胸手術の為の前準備を頼み、レイセンが持ってきた大きな薬箱から簡易的な手術道具を取り出し始める永琳。
 言われるがまま魔理沙の傍らに移動したアリスは馴れた手付きで魔理沙の衣服を剥がし胸元を開ける。
 アリスは自分のみならず人形の衣装も型紙から仕立てる洋裁技術を習得しており、それを知った魔理沙のオーダーで前に一着仕立てた事もある。今魔理沙が着ている服はその時自分が仕立てた服で、魔理沙は寄せ集めではなく自分用に採寸して生地から選別して仕立てられたアリスの服をすぐに気に入り一張羅と言って特別な日に着る勝負服と嘯いていたのを思い出す。
 自分の作った服を一張羅と喜んで貰えたのは正直嬉しいことだった。魔理沙とは犬猿の仲で嫌な思い出ばかりがすぐに頭に浮かぶが、振り返って見ると嬉しいというポジティブな感情を引き出してくれたのはいつも魔理沙だった。
 相手が誰であろうと、素直に賞賛する魔理沙。商売敵として何度も揉め事を起こした犬猿の仲なのに、何故か惹かれてしまうのは、唯一自分を賞賛してくれる人物が彼女だけだからだろう。
 自分の研究や技能を認めてもらいたいと密かに思ってはいるものの、出不精で人付き合いが苦手な内向的性格のアリスは、自分を上手くアピールすることが出来ず、人妖の寄りつかない魔法の森で魔法研究に没頭し世捨て人の様な暮らしをしていた。
 近年、霊夢や魔理沙、紅魔館が活動を始め魔法の森周辺が騒がしくなり、それに刺激されてアリスも活発に動くようになり、魔導人形操術の研究の成果を披露する事が出来た。
 戦闘にせよ生活にせよ人妖との関わりは何かとストレスが溜まるものだが、一方で生活に張りが出て研究が捗るという良い面もあった。
 社会常識から逸脱し自分勝手ですぐに他人の物を盗み、高値で売れる魔法の森に迷い込む珍品の独占を阻む鬱陶しかった魔理沙も、居なくなれば寂しいもので、心にぽっかりと穴が開いたような喪失感が膨らみ続けている。自分で思っている以上に、魔理沙の存在が大きくなっていたようである。
「急いで!」
 エプロン、黒いベストの大きなボタンを外して、その下のパフスリーブのブラウスの一番上のボタンを外そうとして、指が震えて上手く外せなくなったアリスに気づいたレイセンは、大きくはないが気が入った声で渇を入れる。
 パチュリーはその様子を見てアリスの代わりにブラウスのボタンを外し、キャミソールの肩ヒモを外してヘソまで胴衣を下ろす。
 露わになった小さな乳房は呼吸によって生じる伸縮はなく、人工心肺で圧迫された部分が青あざになって、痛々しく見える。
 魔理沙の年齢は霊夢と同じ15歳。里に同年代の男女は居ないが、居ればとっくに子供を産んでいてもおかしくない年齢である。肋がほんの少し浮いて見え、肉体的にまだまだ未成熟である以前に若干の栄養失調のきらいがある。霊夢もそうだが大人の身体になる第二次成長期の直中に十分な栄養がとれていない所為だろう。

「ありがとう。」
 手術の準備が調ったところで、永琳とレイセンが礼を言って2人の魔法使いと入れ違いに持ち場につく。
 アリスらが、これからどのように手術が開始されるのか想像を働かせる隙も与えず、永琳が右手に持った小さな手術用の特殊ナイフで魔理沙の胸を縦に切り割き、間髪入れず助手のレイセンが傷口を左右に開き、専用の器具で固定する。そして露出した肋骨を器具を使わず、兎を食肉に加工するよりも乱暴に、指で強引に折り砕いて取り除き、手首が入るほどの小さな穴を空けてしまう。
 アリスとパチュリーは驚いて目を丸くする。もう少し丁寧で精密な手術をすると思っていたが、術後、傷口の縫合を全く考慮しない施行の仕方に面を喰らう。
 どんな傷でも一瞬で元通りに出来る万能薬がある為、この様な術後の事など考えない手術の仕方をするのだろうとすぐに思い至るが、解剖実験に晒される小動物の様な魔理沙の扱われ方にアリスらは憤りを覚えずにはいられない。
 そんなアリスらの負の感情など気に留める様子も無い永琳だったが、ここで何かに気づいて一瞬だけ手の動きと止めてしまう。
 同じように異変に気づいたレイセンと一瞬視線が交錯したが、そのまま作業を続ける。
「(おかしい・・・明らかに小さい。)」
 開胸し露出した心臓は、驚く程小さく、まるで10歳前後の子供の様であった。
 個人差はあるにせよ明らかに小さい。病気などなんらかの理由でこうなってしまったのか、この状況に理由をつけるのは簡単だが、これが妹紅によって仕組まれた死である以上、この異常な少女の心臓が、その理由ではないかと勘ぐるのが自然である。
 レイセンも妹紅との関連を察知してか、普段なら驚いて声を上げるところだったが、師に合わせて何事もなかったかのように、丸い穴の開いた白い布を魔理沙の胸にかぶせ胸部に空けた穴だけを露出させる。順番は決めていなかったが、レイセンはそのまま胸の穴に手を入れて心臓を握り、絞り出す様に血液を循環させる。
 意識のある人間にこんなことをしようものならショックで絶命しそうだが、既に絶命している人間には関係ないのだろう。アリス等は固唾を飲んで見守る。
「貴女達も同じ様にしてもらうわね。」
 永琳は、魔理沙の心臓のサイズの事は一先ず置いておき、弟子を見本にアリスらにも同様の作業をしてもらうことを告げた。

 
 神様による神様の為の宴が、博麗神社境内で華やかにとりおこなわれている。
 紆余曲折を経て藤原妹紅主導に取って代わられた異変の顛末など、ここでは神様を楽しませる為の余興でしかなく、風見幽香の巨大ひまわりによって墜ちてくる天井が押し戻された大パノラマショーは、大いに場が盛り上がったものである。
 一歩外に出れば悲壮感しかない幻想郷もここだけは別世界の様で、神様のいる神社にいれば絶対に安全だと、里から来た人間達は確信し、安心と安全を与えて下さる神様に無類の感謝を込めて宴の裏方を喜んで引き受けている状況であり、これは上白沢慧音の思惑通りの展開で、神様と人間との間に絆を育み、信頼関係の再構築が始まった事を意味する重要な出来事だった。

 博麗に対する信仰心によって増幅された神主の力で持って強大な八雲紫の力を抑制し、その抑圧から逃れようとする反発力を、幻想郷を構築する力に変換する。
 今でこそ八雲紫単独でそれを行う事が出来るが、現時点の幻想郷は博麗と八雲紫の2つの力で維持される仕様になっている。
 外から来た神様によって信仰が奪われれば、相対的に博麗神社への信仰は地に堕ちてしまう。博麗と八雲紫の2つのバランスは大きく崩れ、この状態が長く続けば博麗の信仰が僅かに残っていても幻想郷崩壊は時間の問題なのだ。
 博麗以外の新しい信仰は、幻想郷にとって致命傷になる。これを恐れた神社や八雲紫は常に博麗によって幻想郷が守られている状況を演出し、それ故に信仰を奪いかねない仏法に殉ずる天狗は人間との関わりを禁じられ、その存在がお伽話のような遠い存在になったのである。
 それ故、守矢神社の幻想郷入りは非常に危険なことで、八雲紫は彼らを警戒監視していたのだ。
 幻想郷の仕組みを知らない守矢神社は、独自の信仰を得る為に何度か動き、存在感を示す事には成功したが、全くと言っていい程信仰心は集まらなかった。原因は多くの人間達が神様という存在を妖精と同等かそれ以下の存在として認識するようになった為で、先ずは神様という存在を認識させる必要があり、信仰の基礎を構築しようとする上白沢慧音の今回の異変の提案に乗ったというわけである。
 幻想郷に復帰して間もない八雲紫は博麗の影響がまだまだ存在すると誤認に、現博麗の巫女博麗霊夢に肩入れして博麗の復権を影で操っていたが、時既に遅く博麗の名声はどん底にまで堕ちこんでいたのである。

「ん?どうした霊夢?」
 先程まで上機嫌だった霊夢の表情が一瞬曇った事に、霊夢と共に神様の世話役を務めていた守矢神社の二柱の片割れ洩矢諏訪子が気づいた。
 幻想郷を乗っ取って東風谷早苗の為の楽園にとって代えようと画策する八坂神奈子とは違い、洩矢諏訪子は幻想郷の秩序を乱す腹はなく、むしろ博麗の信仰回復を目論み彼の地で密かに動いている神主と裏で結託していたりもする。霊夢の後見として神主から直接頼まれている諏訪子としては、他者なら見逃すような霊夢の僅かな変化を見逃さなかった。
「べ、別に何でもないわ。」
「何でもないことはないじゃろ?」
 踊り好きの神様が主神の前で愉快な踊りを披露している。諏訪子は主神に失礼にならないように、注意がそちらに向いている隙を狙い霊夢の側に寄って尋ねる。
「ちょっと嫌な感じがしただけ。」
 気持ちが大きく大らかになっている為、いつもなら諏訪子を突っぱねる霊夢だが、ここは素直に応じる。今の霊夢は諏訪子に対し、一定の尊敬と敬意を持っていた。
「今の霊夢は神と同じぞ。嫌な感じがしたのであれば、実際にお前にとって何か悪い事が確実に起こっていると考えるのが妥当じゃ。」
「私にとって悪い事?」
「簡単なところでは身内の身に何かがあったとか、そんなところじゃな。」
「私に身内は居ないけど・・・。」
「親兄弟よりも絆の固い親友とかもおらんのか?」
「親友?・・・さぁ?」
 一瞬魔理沙の顔が過ぎる。小さい頃は魔理沙に対し家族以上のものを感じていたが、今の魔理沙と当時の魔理沙が同一の存在には思えず、諏訪子の問いにはっきりとした答えを出せない。
 頭では魔理沙は魔理沙だと分かっているのだが、本能的な部分でそれを否定しているのだ。
「気のせいじゃないの?」
「だったらいいがの。仮に今、お前の脳裏を過ぎった人物がいたとすれば、その者に何か良くない事が起きているかもしれん。」
 踊り終えた神様が一礼すると、一際大きな拍手が巻き起き、お酌をしに諏訪子が元の位置に戻ると、話はそこで終わった。
「(魔理沙・・・私の知ってる魔理沙は今どこにいるの?)」
 霊夢は後ろ髪を引かれつつ、この場での自らの役目を果たすため頭を切り換え、楽しく踊って場を盛り上げた神様に笑顔と拍手喝采を送った。


 霧の湖湖畔。魔理沙の蘇生作業が始まって30分、心肺停止から35分が過ぎようとしていた。
 心臓を直接手で圧迫して効率よく血流を発生させる作業は、人工呼吸を絡めながら4人で交代で行っており、アリス・マーガトロイドは4回目の心臓圧迫に取りかかっていた。
 魔理沙は開胸しそれなりの出血をしているので、永琳は輸血が必要だと少し焦り始める。絶対的な血液量が足りなくなれば、血液を体の隅々まで到達させる血圧も維持できない。手足の血液を胴と頭に集めて切断してしまうのも手だが、これ以上の魔理沙の肉体の損壊は2人の魔法使いの手前、モラル的に許されないだろうから、これは最後の手段である。
 増血剤は既に使い切り、新たに血が必要なら輸血をするしかない。
 蘇生作業中にパチュリーとアリスの血液成分を調べたが、何れも魔理沙に輸血できるものではなかった。このままでは1時間持たず蘇生不可能な状態になる。
「(それにしても、小さい心臓・・・。)」 
 妹紅が何故魔理沙を殺し、そして生かすという一見無意味な作業をするのか、その理由がある程度分かってきた。魔理沙の肉体は明らかに異常であり、その異常な魔理沙を正常に戻すためなのだろう。そしてそれをすることで、二次的、三次的に別のメリットが出てくるのだ。これを逆に考えると、何らかのデメリットで魔理沙がこの異常な状態に陥り、本来恩恵を受けるべき存在の健全性が妨げられていると捉える事が出来る。
 恐らく妹紅は、不健全な幻想郷を健康にするために動いており、これはその治療の一環なのだ。
「(この命、何としても繋ぎ止めなくては・・・しかし、時間が・・・。)」
 蘇生作業をしている間にも出血はしており、胸の穴に血溜まりが出来ている。それを注射器で吸い取って血管に戻す作業は先程から行っているが、衛生的ではなく時間が経てば様々な弊害が出てくるのは必至である。
 こんな場所でこんな作業を長時間続ける事は物理的に不可能だ。しかしだからといって、今この時点での作業中断は非常に危険だ。
 死後、数分の間に永遠亭に運んで適切な処置を行えば良かったと後悔の念に駆られる。物の数分で蘇生できると踏んで、妹紅の策の真意に気づくのが遅れて行動の機会を失ってしまった。信任を得て置きながらなんたる失態。
「(医者が聞いて呆れる・・・。)」
 ここに月のお姫様、蓬莱山輝夜が居ればある方法で奇跡を起こせる。しかし、彼女はいない。呼べば素直に来る性格ではないことは重々承知しているし、向こうから人助けに来るなど万に一つもない事も分かっている。

 作業を初めてから45分、死亡から50分が経ち、全員両腕の握力も失われ、最初は効果のあった疲労回復の薬も既に効果が無くなっている。
 人間より筋力のある妖怪といえども握力はまた別の話で、瞬発力はあるが持続力では人間とそう大きくかわるものではない。気合いや根性でどうにかなるものでもなく、動かしたくても指が動かなくなり、最初は1人あたり3分をノルマで交代していたが、50分を過ぎる頃には30秒ずつの交代となっていた。
 ナノマシンを利用した総合サポート身体機能で肉体を強化している永琳は、苦痛や疲労を脳から切り離して機械的な動作を長時間行えるものの、微妙な力加減が重要なこの作業にそれは適しておらず、サポート無しで皆と同じノルマでローテーションを回っていた。
「くっ!」
 手をゆっくり開いて強く握るというだけの単純な作業は、始める前はとても簡単なものだと思い込んでいた。しかし、やってみれば簡単ではなく、30回程で握力に陰りが出て腕の筋肉が張っていくかなりの重労働だ。
 心臓は想像以上に堅く、しかもゴムの様な弾力があり握る手の指を跳ね返してくる。2人の魔法使いは漠然とした違和感でしか感じていないようだが、魔理沙の心臓は通常より小さく、その分握る回数を増やして、血量を補っているので尚更大変なのだ。
 死んでもなお、こちらの思い通りにならない魔理沙にアリスは憤る。しかし、その一方で命の源とも言える心の臓に直接触れる機会は滅多にあるものではなく、貴重な体験をさせてもらっていることに感謝の念もあった。
 この作業を止めれば魔理沙は確実に死ぬ。そう、間違いなく死ぬのだ。文字通り魔理沙の命をその手に握っているのだ。助けたい。何としても助けたい。
「あれ?」
「どうしたの?」
 アリスから交代したパチュリーは、前回の時よりも魔理沙の心臓が軟らかくなっているような気がして疑問の声を上げた。
「少し軽くなったような・・・。」
 心臓が固く感じるのは、筋肉で出来た心臓そのものの堅さだけではなく、その中に粘度の高い血液で満たされ、全身の血管と繋がって、一定の圧力が保たれているからである。
 しかし、開胸している魔理沙はその傷口から常時出血しているので、心臓に戻る血液が少なくなるのだ。蘇生開始から1時間になろうとしており、この頃になると止血剤の効果は失われ出血量は時間を追う毎に多くなっていた。
「そろそろ血液が足りないわね。一端作業を止めて。」
「止めてどうするんです?」
 レイセンが疑問の声を上げるが、すぐに最後の手段に入ろうとしてる師匠の思惑を理解した。
「魔理沙の手足を切断し、身体を小さくして相対的に血を増やしましょう。」
 皆すぐに永琳の言葉の意味を理解し、それが今ここでしなければならない事だということも理解出来た。しかし、そこまでしなければならない状況なのかと、返って絶望感を増幅させてしまう結果を生んでしまう。血も涙もない永琳の冷静で正しい判断は、この場合、冷酷な死の宣告となってしまったのだ。
「も、もう、もうダメなの?」
「落ち着いて、息を吹き返せば手足の欠損は何とでもなるわ。」
「吹き返す?いつ息を吹き返すのよ!」
 切羽詰まったアリスの心に永琳の抑揚のない台詞は、危険な化学反応を起こす。半狂乱となったアリスは大声を上げ、永琳に掴みかかる。
 肉体の疲労は精神を蝕み、冷静な判断力を失わせる。パチュリーもこれが予め想定されたものと頭で分かってはいるものの、アリスに同調する心の動きを止める事は出来なくなっていた。
「これ以上、手が動かないわ!あと何分で生き返るの?それを教えてもらわないと、もう、もう・・・。」
 握り拳すら作れなくなった乏しい握力。それを何とか気を奮い立たせて気持ちだけで魔理沙の小さな心臓を握っていたのに、永琳の残酷な言葉で気持ちの箍が外れてしまったのである。
 レイセンは胸の穴の血溜まりを血液を魔理沙に戻す作業の手を休めていなかったが、凝血しない魔理沙の血液を見るにつけ、もはや生き物の死体には見えなくなっていた。これはまるで、人間ソックリにつくった人形ではないか?背筋が凍り始める。
 張り詰めていた糸がプツンと切れて、必死に抑えていた感情が爆発する。
 永琳は後悔していた。皆の感情がすり減る前に行動していれば、憎まれても、ここまで錯乱はしなかったはずである。いや、むしろ自分が負の感情のはけ口としての精神の緩衝材となっていれば良かったのだ。
 互いの肉体を削り、精神を攻め立てる妹紅との戦いとは違い、相手を思い遣り守る為に自らを犠牲にする戦いを敗北という結果で経験した永淋。妹紅が如何に難しい戦いを続けていたのかを今その身を持って知った。
 レイセンは師の無力感に苛まれた青ざめた表情を初めて見た。妹紅に破れた時は綺麗さっぱりとした清々しい表情をしていたのに・・・。
「(ダメかもしれない・・・。)」
 魔理沙はもう助からないという確信がレイセンの心を打ち砕いた。師匠を変えてくれた妹紅の恩に報いる使命感で動いていた手が、岩の様に堅くなってしまった。もうどうやっても動かない。
 早くに紅魔館から人手を借りて行動していればこんな状況にはならなかったかもしれない。自分達なら何とか出来る、自分達以外には不可能だという自惚れがこの結果を招いたのだ。すぐに永遠亭に搬送し、蓬莱山輝夜の力を借りればどうどいうことは無かったはずだ。
「(妹紅・・・ごめんなさい・・・助けられなかった・・・。)」
 目の前の命を諦めないと妹紅に誓い、これまで必死に頑張ってきたレイセンの心はついに折れた。
 
東方不死死 第74章 「必至必死」


 天空を支え押し上げた巨大向日葵の群立は、次第にその密度を減らしてゆき最後の一本がその短い生涯を終えて残骸を中空に霧散させると、幻想郷は再び静寂に支配された。
 不死鳥の浄化の炎を防ぐ結界を張った博麗霊夢と、巨大向日葵で墜ちてくる空を支えた風見幽香の活躍によって、幻想郷最大の危機は今正に取り除かれたのだ。
 しかし、不安要素はまだ存在していた。結界の向こうに未だ存在する不死鳥の浄化の炎である。
 
 八雲紫が不死鳥の転生を期に滅却しようとしたスキマ爆弾が誤爆してしまい、彼女の主要能力であるスキマの能力が一時的に制御不能に陥っていた。
 スキマ爆弾とは、月と地上の境界を消し去る爆弾で、八雲紫が1000年前に自ら引き起こした月面戦争の敗北における報復の為に、その場の思いつきで造ってしまった制御できない非常に危険な爆弾である。
 この爆弾は周囲の制止によって使われずに済んだものの、処分出来ずにスキマの彼方に封印した、制作者本人が造った事を後悔している汚点、負の遺産である。
 八雲紫は、異変に託け不死鳥の浄化の炎でそれを焼却しようと目論んだが、これを藤原妹紅に利用され誤爆させられたのである。
 このスキマ消失の事実は極一部の関係者しか知らず、異変の作戦総司令官に抜擢された吸血鬼レミリア・スカーレット以下会議のメンバーは、何れ浄化の炎はスキマによって外界に少しずつ排出され、異変はそれほど遠くない未来に無事解決するものと信じて疑わなかった。
 そのスキマ消失の事実を知らない会議のメンバーにとっての当面の問題は、結界の向こうに取り残されている人間の魔法使い霧雨魔理沙の安否であり、彼女の帰還を以て異変解決を宣言するところであった。

「魔理沙は無事なの?」
 レミリアの問いかけに瞑想する紫にかわって九尾の八雲藍が応える。
「先程の爆発で魔理沙は回避行動を取って脱出予定位置からだいぶ離れてしまっている。今、現在地点から脱出地点までナビゲート中だ。今暫く時間を要するだろう。」
 これは、スキマの力が消失し魔理沙に関する情報を完全に失った藍の完全なホラ話だったが、魔理沙を脱出させる上で実際に紫がナビゲートし、スキマ砲と同じ原理で来た道を戻る単純な脱出方法や、万が一に備えた保険を幾つも用意していたのは事実で、スキマが正常に働いていれば藍の尤もらしい嘘は現実のものとなっていたはずである。
 八雲藍は霧雨魔理沙は既に死んでいると確信していたので、十六夜咲夜の口車に乗ってしまったが、彼女の言う通り黒い魔法使いは未だ存命のようである。俄に信じられないが藤原妹紅と裏で手を結んでいるという事実を知らされた後では、魔理沙が生き残っている可能性も万に一つくらいはありえない話しではないだろう。
 覆水盆に返らず。藍としては過ぎた事よりもこの後が問題だと睨み思考を巡らす。

 『どうやって魔法使いを脱出させるのか?である。』

 灼熱地獄から身を守る事は出来ても、霊夢の結界を物理的に超える事は人間の魔法使いの今の能力では到底不可能であるし、紅魔館の魔法使いでも無理だろう。頼みの綱である妹紅も自爆して今は現世にいない。魅魔のような実体のない霊的存在なら物理的にも魔法的にもすり抜ける事は簡単であろうが、今彼女は存在しない。
 何か魔法以外の別の能力を使えば或いは何とか出来るかもしれないが、その能力が空間を自在に行き来出来るスキマの能力だけである以上、その手段は今現在この時間帯にそれは存在しない。仮にその能力が使えたとしてスキマ砲の様に炎熱を逃がす空間を作らずに直接結界に穴を空けるような安易な真似をすれば幻想郷を焼き払ってしまいかねない。
 或いはこの黒い魔法使いにコアの破壊だけをさせて、後は見殺しにするという可能性もある。いや、むしろこちらが本命だろう。どう考えても霧雨魔理沙と紅魔館、藤原妹紅との間に接点が見いだせない。こちらが魔理沙を利用した様に、彼らも小賢しい魔法使いを利用し、使い捨てたと考えるのが自然である。
 特にあの邪悪な藤原妹紅が絡めば尚更であると、人間、特に藤原妹紅を信用していない藍は率直にそう考える。
 異変という名の演劇の舞台から下りた八雲紫と藍側には、立場的にも能力的にも手出し出来ない状況である。ただ、周囲は未だ主導権をこちらが握っていると認識しており、紫が魔理沙の命を預かっていると見ている為、周囲の期待に合わせて茶番を演じるしかなかった。
「(あのメイドめ・・・。)」
 幻想郷が滅びるという予測に自信があった為、メイド長十六夜咲夜の提案に従い異変を放棄して舞台を下りてしまったが、幻想郷の滅亡が直ちに起こらなくなってしまった為、完全に無意味なものになってしまった。
 魔理沙がこのまま想定通り死ねば、それは作戦を立てたこちら側の責任になるし、無事脱出したとしてそれは当然の結果で、功績は黒い魔法使いと指揮官側に帰し、八雲紫が賞賛されることはない。そもそも、魔理沙を突入させてしまうという最後の手段に出なければならない状態に追い込まれた事が既に失敗なわけで、この時点ではもはやこちらが賞賛される要素は皆無なのである。
 このまま幻想郷が滅ぶのなら当初の予定通り幽冥結界を経由して冥界に逃げるだけだが、もし、逃げた後で幻想郷が維持されていれば、こちらは敵前逃亡したと受け取られ、逃亡者、裏切り者、臆病者と誹られる。
 舞台を下りたはいいが、劇場から出る事を許されず観客席で見たくもない演劇をひたすら傍観させられるだけで苦痛でしかに。立場的には飛び入りの人形使いや河童と同じであり、この状況は策士である藍のプライドを著しく傷つけるものだった。
 腑が煮えくりかえる藍としては、ここでネタをばらして紅魔館の茶番を衆目に曝したい気分に駆られるが、それをやれば、紅魔館に上手く乗せられ罠にはめられたこちらの無能を際立たせるだけである。
 紫は一見すると静かに瞑想しているように見えるが、廃人に近い危険な状態である。しかし、そこは腐っても妖怪なので直ぐにまた持ち直すだろう。その時間を稼ぐ上でも、ここは紅魔館側に合わせてこのまま茶番を演じ続けるしかなかった。


 上空2000メートル。ここは不死鳥の浄化の炎に包まれた霊夢の結界の外側。
 永琳の防御要塞の中枢コアの大爆発で、現在地が全く分からなくなった人間の魔法使い霧雨魔理沙は、生命の危機に直面してパニック状態になっていた。
「どっちだ!どっちに逃げればいいんだ!」
 妹紅の呪符を魅魔の体で補強した魔理沙を保護する結界内の室温が40℃を超え、魔理沙は汗だくになり肩で大きく息をしながらがむしゃらに飛び回っていた。
「落ち着け、冷静になれ魔理沙。ここが魔法使いとして真価を問われる場面じゃ。」
 何とか宥めようとする魅魔だが、氷の妖精チルノの瀕死状態を背中で感じ、流石の魔理沙も気が動転して耳を貸す状態ではなくなっている。
 魅魔も流石に少し焦ってくる。空間転移の魔法で外に分子転送するのは簡単なのだが、魔理沙を正常に戻すために一度正しく人として殺さなければならず、その為に妹紅の用意した次のアクションを待たねばならず、そのタイミングは全て妹紅の手の内にあるので、魅魔は手も足も出せずに、魔理沙と共に無為の時を過ごすしかなかった。
 藤原妹紅は用意周到に前準備をして異変に臨んでいるが、一旦自爆した後は擬似的な死の狭間に追いやられるため、現世に対し一切の干渉が出来なくなる。その為、段取りを予め決めておかなければならなかった。
 妹紅はこの次の段取りに移るタイミングを時の長さではなく温度で管理しており、時間と共に上昇する結界内の室温で予定を組み立てていたのである。
 氷の妖精の影響で想定より室温が上がっていない為、この様な待ちの時間が発生してしまったと魅魔は考えている。温度をほんの少し上げれば次の段取りに進むと思うが、温度は大幅に上げ下げは簡単なのに、小幅の変化は大魔導師といえども簡単ではなく、妹紅が1℃や2℃の僅かな温度差でスケジュールを管理していたとするなら、こちらの力添えが仇となる可能性が大きい。
 少しの時間待てばいいのだが、余り時間が経ちすぎれば魔理沙が平常心を失い錯乱してしまうので魅魔はジレンマに襲われる。
「頼む誰か助けてくれ!」
 自分ではどうにもならない状況にとうとう泣きが入る魔理沙。
「魅魔様、速くしないとチルノが解けちまう!」
 懇願の表情で魅魔を見る魔理沙。何故そこまでしてこの妖精にこだわるのかわからない。
 魅魔はこの氷の妖精をすぐに元気にさせる氷の魔法をかけてやることができたが、その必要性を感じず魔理沙の行動に一定のベクトルが働くのでこの妖精の瀕死状態をむしろ利用していたりもする。密かに魔法を掛けて融解しないよう延命措置だけは施していたので直ちに死ぬことはないだろうが、ここで氷の妖精を元気にしてしまっては、室温が下がって妹紅の段取りが台無しになってしまうので、これ以上は介入出来ない。
「(魔理沙・・・。)」
 死霊術の解除によって封印していた忌まわしい記憶が魔理沙を責め続けており、チルノの助命は自分の犯した罪の大きさ故の代償行為、或いは無理矢理連れてきてしまった責任感や罪悪感なのかもしれないと魅魔は感じている。
 魅魔はそんな苦痛と苦悩の中にいる魔理沙を何とか助けてやりたいと母親としての本能が呼び覚まされようとしていた。ある日、突然目の前に現れた10歳の少女を見て母性が再び目覚めた時の様に。だが、それは同じ過ちを繰り返す行き過ぎた危険な愛憎の現れであり、この想いが強くなれば妹紅の計画よりも魔理沙の命を優先し目先の大義を履き違えてしまう。これは妹紅が最も懸念していたものだった。

 魅魔の中で何かが変わろうとした時だった。魔理沙の握っていたホウキの柄に貼られた妹紅の呪符が突然小さく爆発したのである。魔理沙は『ぎゃっ』と言う小さな悲鳴を上げ手を離し、魅魔も少し驚いて今は必要のない危険な母性本能を一旦引っ込める。
 小さな爆発で沸き起こった小さな煙の塊は直ぐに消えたが、そこに見覚えのあるシルエットが浮かんでいた。
「も、妹紅?」
 そこに現れたのは身の丈7寸ほどの藤原妹紅だった。頭身がやや高いので本物のミニチュアというより、良く出来た人形に見える。
「私がここにいるということは、魔理沙の身に危険が迫っているということね。」
 小さな妹紅は、出現したホウキの柄の上にふわふわ浮いたまま正面の魔理沙を見ながら喋り始める。これが生身の本物の妹紅でないことは一目瞭然で、前に見た分身の術と同じ類のものだろうと魔理沙はすぐに理解できた。予め用意されたメッセージを伝える、所謂メッセンジャーというやつだろう。
「私は、メッセンジャー。私は魔理沙を安全に脱出させる為に必要な情報だけを伝える存在。分かると思うけど対話は出来ないからそのつもりで。」
 魔理沙の予想通り、この小さい妹紅はメッセンジャーで、一方的に情報を伝達する人形である。
 環境の変化で発動するトラップ型の呪符を応用し、設定した温度に達すると小型の分身が出現するように仕込んでいたのだろう。
「脱出方法は簡単よ。私が指さす方向に向かって兎に角速く飛ぶこと。」
「それだけか?」
 魔理沙は対話出来ないと事前に注意を受けていたがつい聞き返してしまう。
 小さなメッセンジャーは当然魔理沙の問いには答えず、くるりと後ろを向き体を正面に向け、魔理沙から向かって右下を小さな右腕全体を使って指す。魔理沙は言われた通り、妹紅の指の方向にホウキを先端を合わせ、その動きに合わせて真っ直ぐ正面を指す妹紅の腕先に向かって飛行しはじめる。
 先程まで八雲紫がすぐ横にスキマを開いてナビゲートをしていたが、今は魅魔とチビ妹紅と自分に近しい者がそれをしてくれるので何だかとても心強い。暑いのは相変わらずだがパニック状態も解けて今は平静を保つ事が出来ている。
「いくぞー!」
 スピードを上げる毎に妹紅の背中から炎の翼が生えて少しずつ大きくなっていくのに気づく。速度を緩めると翼が小さくなることからこの炎はスピードメーターの役割を果たしているようだ。この熱くはない炎の翼が最大になった時が脱出の時なのだろう。
 助かる見込みが生まれた魔理沙は、俄然やる気が湧いて一気に加速し自分の出せる限界のスピードに挑む。
「まだ全然たりないわ。もっと速く!」
 小さな妹紅は翼が一定の大きさに達する毎に魔理沙にスピードが足りないと前を向いたまま注文をつけてくる。
「まだ、足りないのか?」
 誰に言うわけでもなく、理不尽とも言える注文に次第に不安が膨らむ魔理沙。
「まだ全然たりないわ。もっと速く!」
 同じ台詞を繰り返すチビ妹紅。
「分かってるよ!くそ!」
 魔理沙は小さな妹紅に怒られながらシフトアップし、もっと速く飛べる筈だと自分に言い聞かせる。
「もう少し!もう少し速く!」
「むぅ?メッセージが変わった!もう少しだ!」
 自分で出せる限界のスピードに近づいた時、妹紅の翼が虹色に輝きだし、メッセージの内容が変わった。
 魔理沙は心の中で『よし』と頷くが、この辺りが限界でもうこれ以上のスピードは出せなくなっていた。しかし、それでも諦めず必死に喰らい付く。
 先程のパニック状態から一転冷静になり、火属性の密度から天地方向を割り出した魔理沙は、一旦妹紅の指すルートから逸れて、天頂方向に重力に逆らって上昇する。そして、重力加速度を利用してそこから真下に一気に急降下して速度を上げ、目標に向かって大きく弧を描きながらスイングバイし更に速度を上げる。
「・・・。」
 そんな魔理沙を後ろから静かに眺めていた魅魔は、愛娘の必死の試みで上昇するスピードとは反比例するかのように、気持ちがどんどん沈んでいく。
 妹紅の要求するスピードに達した時魔理沙は死ぬ。そう思うと胸が張り裂けそうになる。この事は事前に打ち合わせて分かっていたはずなのに、いざその場面になると自制出来ない本能の様なものが現れ拒絶反応が出てしまう。
 これが正しい選択だとしても、自分の可愛い娘が死に直面しているのだ。親としてこれを黙って見ている事は出来なかった。
 魔理沙が本当の娘ではないことなど重々承知している。しかし、悪霊となった原因が乳飲み子だった実の娘の命のやりとりなのである。子を想う親の愛情とそれが果たせなかった未練、恨み、復讐の闇の心こそが魅魔を悪霊として存在させている基礎的な動機なのである。
 魅魔は何度も何度もスピードを落とせと言いかけて喉元でそれを無理矢理呑み込み、理性と母性の狭間で耐え忍んでいた。
「(魔理沙・・・。)」
 魔理沙をこんな体にしてしまったのは自分の責任だと後悔する魅魔。悔やめば悔やむ程に心の中にどす黒い感情が芽生える悪霊の定め。我慢すればするほどに後悔の念は増幅する悪循環。
 いっそこのまま可愛い娘と共に死のうかとも考える。いやダメだと首を振り涙を散らす。
 何より憎らしいのが、この妹紅の施した仕掛けである。魔理沙では出せないスピードでも魅魔なら簡単に出すことが出来る。そのスピードで脱出用のスキマが開く仕掛けであり、つまりこれは魔理沙への引導は魅魔の手で渡せという妹紅のメッセージなのだ。
「(これは、罰なのだ。)」
 魅魔は自分にそう言い聞かせ、妹紅に対する黒い感情を受け流す。
 八雲紫が休眠中の間、幻想郷の運営を任され、霊夢を神社に向かえ親代わりとなって彼女の成長を見守るはずだった。しかし、博麗霊夢が来る前に霧雨魔理沙が目の前に現れてしまったのだ。魅魔は霊夢に注ぐはずの愛情をどこの者とも分からぬ小汚い小娘に注いでしまったのだ。
 運命の歯車はそこで狂った。
 妹紅に言わせればそのことも吸血鬼王アルカードの大計の一環なのだが、運命とは皮肉なもので魅魔は二度我が子を失おうとしており、その心痛は計り知れないものだろう。

「魅魔様!私に力を貸してくれ!」
 もう少しで届きそうな妹紅の要求するスピードの領域。しかし、届きそうで届かない。でも、何としても届いて見せる。魔理沙は自分に足りないものを素直に師匠である魅魔に求め助力を乞う。
「これ以上スピードを上げる事は危険だ。脱出したとしてもお前の命が危ない!」
 魅魔は思わず結末を明かしてしまう。そう、高速でスキマを飛び出し、湖に激突して魔理沙はそこで即死するのだ。
「はっ!」
 魅魔は言ってはならない事を口にしてしまったことに気づき母親になっていた自分から冷静冷徹な魔導師に引き戻された。
 死を予感させる事を告げれば勘のいい魔理沙のこと、気づいてスピードを落とし、自分を騙そうとした魅魔や妹紅を裏切り者と罵るかも知れない。
 しかし、魔理沙は魅魔の予想になかった答えを出した。
「危険なのは分かってる!でも、速くしないとチルノが死んじまう!」
「そんな妖精の命どうでもよいだろう?」
 予想外の魔理沙の答えに狼狽え、大人げなくムキになって反論する魅魔。
「だったら人間の命だってどうでもいいだろう?」
「な、何を言ってるんだ魔理沙?」
 返答する魔理沙の話しの脈絡が分からず思わず聞き返す魅魔。
「何で、何で魅魔様はあの時私を助けたんだ?死んで当然の事をした私を!」
「ま、魔理沙、お前・・・まさか記憶が?」
「思い出したんだ。5年前のいろんな記憶を・・・。」
 魅魔の死霊術が解けた事で封印されていた記憶が復活し、バラバラになった記憶の断片があるべき場所に完全に戻っていた魔理沙。
「さっきまであんなに暑かったのに、今は全然暑さも寒さも感じないんだ。そうりゃそうさ、だって私とっくに死んでたんだから・・・。」
「そんなことはない。お前はちゃんと生きている!」
 思わず魔理沙を包み込む魅魔。
「だったら、なんで魅魔様と同じで心臓の音が聞こえないんだ?」
「魔理沙、もう何も言うな。悪いの私だ。お前は何も悪くない!」
「悪いのは私さ、全部私が・・・そのせいで母さんが私の身代わりになって・・・。」
 そう言うと魔理沙は大粒の涙をこぼし始める。
 魅魔から魔法を習った10歳の魔理沙は、急激に力を伸ばし、力に溺れ増長の極みにあった。
 父親から勘当され、苦言を呈す師匠の言葉も無視してその元を飛び出し、危険地帯として近づくことを禁じていた吸血鬼始祖の霊の眠る西洋墓地に単身乗り込み、怨霊退治と称してその安息を破壊し、激怒した霊達に返り討ちにあって死んだ。母、サーヤの守護霊がそこで魔理沙の魂を守るために自らの魂を売渡して賭けに出て何とか魔理沙の命を繋ぎ止める事に成功した。
 その後、魅魔に助けられた後、魔理沙は肉体も記憶を改竄され、偽りの命を生きてきたのである。
「私バカだから、妖精だからダメとか人間だから良いとか、そんなの全然わからなくて、でも、自分の所為で誰も殺したくなくて・・・ここでチルノを殺して生き残ったとして、私・・・私、これからどんな顔して生きていけばいいのか、そんなの全然わかんねーよ!」
 魅魔は理解した。魔理沙が1個の妖精に執着していたのは、自分の所為で母親が囚われの身になったことに対する贖罪だったのである。
「もう私は死んでる。放っておけば冷たくなる。だったら、死ぬ前にチルノだけでも助けてやりたいんだ!」
 10歳の悪ガキのまま時間が止まっている魅魔の中の魔理沙とは違う、成長した15歳の魔理沙がそこにいた。自分のことしか考えなかったあの魔理沙が、他者の命を心配している。自分がもうダメだと悟り、生きた証を他者に託そうとしている。
「お前は助かる。助ける為に私がここにいて、妹紅は向こうで待っているのだ。」
「だったら何でそんな顔するんだよ!」
 魅魔ははっとなって自分の顔を両手で覆う。そう、今の今まで魔理沙を止めようと必死に考え、いっそ共に死のうなどと思い詰めた考えをしていたのだ。口では助けると言っておきながら、顔は悲愴感を漂わせた顔をしていたのである。
 内面を見透かされ戸惑う魅魔の心の動きを感じた魔理沙は、抱きつかれたままになっていた魅魔を強く抱き返した。
「妹紅が急に私の前に現れて、色々と面倒見てくれた。楽しかったけど、やっぱ変だと思った。今思うとあの時から何かが始まったんだ。」
「妹紅がお前の中に隠れていた、誰にも見つけられなかった私を見つけだしてくれたのだ。」
「やっぱりそうだったのか。やっぱすげーよな、妹紅は。」
「妹紅は、見ず知らずの悪霊の信任に応えようと必死に動いてくれた。お前を助けようと文字通り粉骨砕身となって動いてくれた。どんなに感謝してもしきれんほどだ・・・。」
「魅魔様、私をどうするつもりだったんだ?」
 魔理沙は自分の身に降りかかっている問題を、元通りになった記憶から逆算してある程度認識しているが、魅魔や妹紅がやろうとしている最終的な結果は完全には理解していなかった。
「不完全な死でただの動く屍だったお前をもう一度正しく殺し、人間として正しく復活させるのだ。」
「そんなこと出来るのか?」
「私には出来ぬ。しかし妹紅ならば出来る。」
「なるほど・・・。」
 魅魔の簡潔な説明を受け、魔理沙は自分自身の肉体が思っている以上に酷い状況であることを報され驚くものの、妹紅なら出来るという言葉を聞いて、妙に納得し安心する事が出来た。
「魅魔様は、本当に私が生き返ると思ってる?」
「もちろんだ。」
「嘘だな。さっきそういう顔じゃなかった。」
「さっきはな。今は違う。」
「どーだか・・・。」
 愛娘からそっぽを向かれしどろもどろになる魅魔。
「魅魔様、私は魅魔様も妹紅もゆうかりんもコーリンも母さんも、みんな信じてる・・・だから、魅魔様も私を信じてくれ!」
 魅魔の中で何かが弾けて5年前に止まっていた時計の針が動き出す音を聴いた。
「魔理沙、私は慕ってくれる幼い魔理沙のままでいて欲しいと、身勝手な願望でお前を縛っていた。死んだお前を、あの時のままの形でずっと手許に置き保存しておきたいと思っていた。」
「全く傲慢な悪霊だぜ。」
 戯けてニカっと笑う魔理沙。 
「育てたかった・・・あの娘を我が手で育てたかった・・・。」
「魅魔様・・・。」
 魔理沙は蹲って泣きむせる魅魔の背中を優しく撫でる。
 あの娘というのは恐らく自分ではないと魔理沙にも分かった。魅魔の生い立ちは知らないが恐らく死に別れた娘がいたのだろう。魔理沙は魅魔の背中をさすりながら両親の事を思い浮かべる。
 母親は肖像画でしか知らないが、存命の父とは袂を分っている。今まで忘れていたが、急にその顔を思い出し後悔の念に苛まれる。もし無事に生き返る事が出来たら一度ちゃんと話しをしなければならないだろう。
「さぁ、そろそろ逝こうぜ!魅魔様!」
 落ち込む自分自身を奮い立たせ、もう一人の母親を元気づける魔理沙。
「楽しそうに言うな!」
 魅魔は意を決した。もう迷わない。魔理沙復活とそこに後に訪れる素晴らしい未来を信じた。
「あっ・・・。」
 何の前触れもなく加速した魅魔。魔理沙はこの加速の衝撃に耐えられず気絶する。せめて苦しまずに逝って欲しい。これが、数秒後に死ぬ愛娘へ出来るせめてもの手向けだった。

 前を向いたまま、魔理沙と魅魔のやりとりに無反応だったチビ妹紅の背中の翼が極彩色の炎となって輝きだすと、くるりとこちらを向き口を開く。
「規定スピードに到達。これよりスキマを開く。」
 そしてほんの少し間をおいてチビ妹紅が別の台詞を口にする。
「魅魔、魔理沙に引導を渡す役目を貴女に託した事、本当に申し訳ないと思っている。でも、これは魔理沙だけではなく、貴女の将来にとっても必要な事。よくぞ決心してくれたわ。魔理沙を信じてくれてありがとう。」
 メッセンジャーのチビ妹紅は予め用意していた台詞を述べると、驚いた魅魔のリアクションを待たずに光の粒子となってホウキの先端に移動し、一瞬巻物の形になると、次の瞬間その巻物が発動しホウキの先端にスキマが開く。
 獄炎地獄から身を守っていた妹紅の呪符は効果を失い魅魔の体との融合が解かれてしまったが、猛烈な速度で飛翔する魅魔と魔理沙は、侵食されていく周囲の炎を置き去りにして幻想郷の地上側に飛び出すのだった。


 紅魔館の館内に避難していた威勢だけはいい臆病な妖怪達は、異変の終息を感じぞろぞろと庭に出て思い思いに行動を始める。
 この状況でも屋敷の正門で門番を努める紅美鈴は、騒がしくなった庭を振り返り、それでも敷地内に留まって決して門から出ようとしない妖怪達に苦笑を向けて再び空を見上げる。
 目まぐるしく変わっていた先程までの状況とは打って変わって、ここ30分は膠着したままである。こちらからどうすころも出来ず成り行きを見守るしかない状況になっていた。
「魔理沙はまだなの?」
 近くは見えるが遠くがあまり見えない河童の河城ニトリがどこからともなく双眼鏡を取り出し、空に向けて必死に盟友の姿を捜している。
 人形使いアリス・マーガトロイドはそんなニトリを尻目に、何度かすぐ後ろにいる八雲藍に顔を向け、あからさまに不信感を漂わせた表情を向け無言の抗議をする。
 八雲紫は先程からずっと『パチュリーの地図』が置いてあるテーブルの席に着いたままほとんど動かずにおり、その姿を隠す様にバルコニーの先端に集まった会議のメンバーの最後尾で邪魔な9本の尻尾を扇状に拡げている。
 紫は魔理沙を脱出させる為にナビゲートをしているとの事だが、アリスには居眠りをしているとしか見えなかった。何度か苦情を言おうとしたが、同じ返答しか返ってこないだろうと思いとどまっていた。
 その時、上空にスキマが開き炎が吹き出て直ぐに閉じたのが見え場が一瞬ざわめいた。
「あれは念の為に用意していた時限式の緊急脱出口だ。」
 どよめきが起こったバルコニーに対し、その気勢を削ぐ様に藍が間髪入れず説明する。
 これはその場凌ぎの出任せではなく本当の事で、念には念を入れて、こうした脱出口を複数準備していたのである。巻物と同じ様に媒体に術を仕込んで中空に設置し、周辺環境に擬態させ、任意のタイミングで開くように予め仕掛けていたものである。紫の能力消失によって任意に操作する事が出来ず、事前に設定していた有効時間を過ぎて自動的に発動してしまったのを藍が尤もらしく脚色したわけである。
 こうしたスキマの発動が何回か起こり、用意していたもの全てが発動し終える。
 これで八雲紫が準備万端、念には念を入れて用意した全ての仕掛けが終了し文字通り万策尽きる。
「(さて、どんな言い訳をするかな・・・。)」
 八雲藍は魔理沙死亡の言い訳を既にいくつか用意し、どの段階で打ち明けるかそのタイミングを計っていた。
 レミリアがバルコニーの手摺りによじ登るようにして上半身を乗り上げ、周囲を見渡して魔理沙が脱出した形跡を探る。呪いによって成長出来ない身であっても基本性能が高い吸血鬼始祖であるレミリアの五感はここにいる強妖怪に勝るとも劣らず、とりわけ聴覚と嗅覚が優れているので、目を閉じて神経を耳と鼻に集中する。
 藍はいつの間にか横に立つ主を感じつつ、驚きを押し殺して平然といつも通りに主より一歩下がった定位置に移動する。先程から紫は、自失したり持ち直したりを繰り返しながらゆっくりと精神が蝕まれている状態で、今、何度目かの持ち直しでそこに立つ事が出来た。これは、万策尽きてもはや思い悩む必要がなくなり開放感を得たからだろう。
 元々血色が良い方ではない紫の顔色だが、今は誰が見ても明らかな蒼白で、焦燥感が表情から読みとれた。
 今更強がってもこれまでの経緯から白々しくなるだけで、むしろ『お疲れ様』と同情の声を掛けやすい表情ではないかと藍は思わず苦笑してしまう。
 実際、今日に至るまでは全てこちらの思惑通り事が進んでいたのに、今日一日最初から最後まで想定外の事が起き、藍も心身共に疲労困憊で、酒でも飲んでゆっくり休みたい心境である。
 八雲藍は緊張が解れ少し気が抜けた。万策尽きて最後に残った仕事が霧雨魔理沙の件だが、その生死に興味はなく、たかだか50年の寿命しかない人間の死に対する一時の悲しみなど、藍にとっては時間の無駄で、適当に言い訳して終わりにするつもりだった。
 この大きな異変で活躍し、死して英雄となって歴史に名を残すなら、むしろその方が魔理沙にとっては幸せだろう。
 問題は知らせるタイミングだけである。今は生きていてもずっとあの中にいることはできないだろう。暑さや空腹でそう長くは生きられないはずである。
 魔理沙が助かる方法は、主八雲紫の失われたスキマの能力が早めに回復すること以外に存在しない。
 3日以内に回復し、短時間で浄化の炎を外に逃がす事ができれば、魔理沙も助かり異変も全て丸く収まるというもので、これが現時点での最良である。しかし、それ以上時間がかかれば、今度は霊夢が結界を維持出来なくなる可能性がある。こうなると魔理沙の命は二の次で、霊夢がどこまで持たせられるかが重要となる。
 結界のこちら側にいて干渉出来る霊夢なら、周囲の援護である程度持たせられるだろう。その際、魔理沙の救出は断念せざるを得ない。
 スキマ回復より霊夢が先に力尽きる事態になれば、予定通り幻想郷を放棄するだけである。今の藍の心境としては、幻想郷事業はある程度成果があったとして、次のステップの為に一度リセットした方が良いと考えている。なので事態の推移を見ながら、持ちこたえそうなら次のステップの為に敢えて霊夢を暗殺し、幻想郷に終止符を打つのも有りだと本気で考えていた。
 何にせよ、あの黒い魔法使いを殺した言い訳などいくらでも吐ける簡単な作業だ。
「(これで終わりだな。何れにせよ、紫様の心労となる要素は全て消えた。後はゆっくり事の顛末を見守ろう。)」
 心の中でほくそ笑む藍だが、異変はまだ最終段階にようやく入る段階であり、八雲紫にとって本当の地獄はこれからなのである。

「魔理沙はどうなの?」
 スキマが幾つか開き、やがてそれも無くなり周囲がシンとなった頃、異変の総指揮を務めるレミリア・スカーレットが最後の確認を行うと、周囲が沈痛な空気になる。
 未だ魔理沙は存命かもしれないが、場の空気に合わせ藍は横に数回振り助からない事を告げる。いつの間にか会議の輪の中に復帰していた紫は申し訳なさそうに下を向く。
 魔理沙の親友を自負する河童のニトリががっくりと腰を落としその場で声を上げて泣き崩れる。
 あの爆発後、時間の経過と共に魔理沙の帰還の可能性が加速度的に低くなっている事を皆は薄々感じており、皆覚悟を決めていたのだ。
 しかし、一人だけその覚悟が決まっていない者がいた。魔理沙と犬猿の仲アリス・マーガトロイドである。
「冗談じゃないわ!妖怪の賢者が聞いて呆れるわね!弱い人間にケツを持たせておいて、失敗して恥ずかしくないの?」
 妹紅が会議を荒らした時と同じようにキレた人形使いが2人の八雲の正面に立ってその無能さを糾弾し場が騒然となる。
 先程から喰ってかかる元人間の魔法使いを煙たがっていた九尾の藍も、そろそろ我慢の限界にきて、格下に対しそれ相応の態度で臨む。
「自ら望んであの中に飛び込んだのだ。こちらにも責任がないわけではないが、一方的に責められる筋合いではないぞ!」
 凄みをきかせて一歩前に出たアリスを威圧する。気圧されたアリスは右足を戻すも気丈に反論をする。
「さっきから見てれば失敗ばかり、何一つ予定通りにいかなかったじゃない!責められて当然よ!」
「身の程を弁えろ!小娘が・・・んん?やけにあの黒い魔法使いの肩を持つな・・・なるほど、そういうことか。くくく・・・。」
「な、そ、そんなんじゃないわよ!」
 アリスの言は尤もだが、格下の妖怪が言う台詞ではないと本題とは違う別の憤りを覚えた藍は、主と同じく精神的に弱い傾向にあるアリスに精神的に揺さぶる方法で仕返しをする。
 同性の魔理沙に対し恋愛感情など全く無く、そもそも妖怪になってからそんなものには興味がなかったアリス。しかし、周囲にいらぬ詮索を与える様な藍の卑怯なやり方につい感情的になって頭から湯気を出し、顔と耳を真っ赤にして怒りだし、かえって図星を当てられたと勘違いされる。
 純粋な力だけでなく、精神戦や情報戦においても一枚も二枚も上手な藍に翻弄されるアリスは、引くに引けなくなって戦闘態勢をとる。
「上海!」
 上海と名付けられた複数の人形を召喚するアリス。魔理沙の責任問題を有耶無耶にする絶好の機会を得た藍は、本来相手にするまでもない格下の挑戦に喜んで応じる。
「愛する者を失った悲しみ、さぞ辛いだろう。私が相手になってやるからその憂さを晴らすがいいさ。」
「話しをすりかえないで!」
 一触即発の事態に陥り、双方というより、アリスが一方的に後に引けない状況になり、これは戦闘になると誰もが予見した。
 明らかに結果が分かる勝負を挑む無謀なアリスを、会議のメンバー達は人間の様で稚拙だと見たが、それを笑う者は誰もいなかった。会議のメンバーのそのほとんどは、不手際ばかりの八雲陣営と裏で手を結んでいるわけであり、言いたくとも言えぬ苦言をアリス1人が代弁してくれているのだ。誰もアリスを蔑視出来なかった。
「やめさない!二人とも!」
 当然の様にカリスマ指揮官が突発的な私闘の仲裁に入る。今のレミリア・スカーレットであれば、指揮官の顔を立てるという言い分で双方の名誉を守ったまま鉾を納めさせる事が出来き、誰もがそう思ってレミリアの介入を歓迎し、ほっと胸を撫で下ろす。

 その時だった。

 湖のある南東を向いたバルコニーで、妖狐と人形使いの仲裁の為に湖に背を向けたレミリアの背後で、衝撃音と共に巨大な水柱が立ち昇ったのである。
 バルコニーの会議のメンバーもその他紅魔館の敷地内にいた妖怪達も驚いて湖を向く。
「な、何事?・・・あ、あれは・・・!」
 レミリアが驚いて湖に向き直るが、そこにあり得ないものを見た。
 水柱の上にスキマが開いておりそこから溢れ出した大量の熱気が、氷点下に近い冷たい水を湛えた湖から上がった巨大な水柱とぶつかり、瞬間的に沸騰し凄まじい音と共に大量の水蒸気を発生させていたのである。
 風見幽香と藤原妹紅が防御要塞に攻撃を仕掛けた際、炎と水がぶつかり合った時と同じ様な状況である。先程はそれがはるか上空で起こったが、今はすぐ目の前で起こったのである。紅魔館は騒然となった。
 衝撃波の様に熱風が通り過ぎ思わず顔を背ける。次に顔を上げた時にはスキマは消えており、まるで消火作業でもするように、霧の湖が大量の冷気を吐き出して上昇した周囲の熱気を押し下げる。
「パチェ!」
 高温になった水蒸気の津波がスキマ発生地点から放射状に拡がるのを見た、赤外線を感知出来るレミリアは咄嗟に親友の名を叫ぶ。この時、熱に反応するように霧の湖が突然大量の冷気を吹き出し水蒸気を安全な温度まで下げたが、湖岸に面した紅魔館側は冷気の量が十分ではなく冷却しきれない水蒸気の波が急接近していた。
 異変の途中から急に存在感を増し、名実共に司令官の参謀としての地位を得ていたパチュリー・ノーレッジは、レミリアの要請に応え持っていた杖で床面を数回、何かの合図を送るように不規則に叩く。皆それが何か魔法を発動させるサインであると咄嗟に判断出来た。
 パチュリーによって紅魔館の防衛システムが発動し、館が球形のバリアに覆われる。
 ここにいる猛者達なら各自自力で高温の蒸気を防げただろうが、避難してきた者や雇っている弱い妖怪はひとたまりもなく、又館は火災を免れないだろう。
 レミリアとしては紅魔館の防衛装置とその性能を、部外者に見せたくはなかったが、いざというときの為の装置であり、今がその時であると判断したのである。
 
 最初に張った霊夢の結界の様な薄紅の幕が瞬時に敷地全体を覆うと、その内側が紅い霧に包まれる。これは、幻想郷全体を覆い陽光を遮った紅霧異変の時と全く同じで、紅魔館内にいるほとんどの妖怪はこれに既視感があった。
 押し寄せる白い水蒸気の壁に、紅魔館の敷地内にいた妖怪達は悲鳴を上げて狼狽えたが、紅い霧を見て動きを止める。この霧が発生した当時は目障りだったが、今は何故か頼もしい。
 高温の水蒸気の波は、紅魔館周辺では200℃を超え、バリアの外側の木々は蒸し焼き状態になるが、水蒸気は広く拡散していくうちに急速に温度を下げていき、紅魔館の背後の妖怪の山、鞍馬山領の斜面に到達するころには、白く冷たい濃霧状の塊となり、それもやがて消えて無くなった。
 巨大な水柱を上げ大きくうねった湖面もやがて静かに凪ぎ始め、霧の湖は水蒸気の白い靄から一転して元の冷たく、そしていつも以上に濃い霧に覆われた。
「今のは?」
「スキマから何か水面に落ちましたね・・・。」
 レミリアの問いに八意永琳が答える。それを聞いたニトリがはっとなって立ちあがり、そのままバルコニーから湖へと飛び降りる。
「まさか、魔理沙が!」
 宇宙人の答えと河童の行動から、スキマから飛び出して湖に落ちたのは魔理沙だと判断したアリスは、ニトリの後を追おうとして何かを思いだして立ち止まり後ろにいる藍に向き直ると、軽蔑の眼差しで唾を吐き罵った。
「何て底意地の悪い連中なの!うんざりだわ!」
 そう言ってアリスは複数の人形を纏ったままニトリの後を追った。
 この時アリスは、魔理沙が死ぬと見せかけ、実は無事だったという八雲側の仕掛けた所謂『ドッキリ』だと思い込んだのである。これは勿論アリスの勘違いだが、スキマが八雲紫の固有の能力である以上、これを使った仕掛けは全て彼女の仕業だというのは幻想郷の常識であり、八雲紫と藍以外の者は、この状況を全て彼らの仕組んだ趣味の悪い演出だと捉えていた。
 
 青天の霹靂とは正にこのことを言うのだろうか?この突如のスキマ発生と、その後の何物かがそこから飛び出し水面に激突したという状況は、完全に予想外の出来事だった。
 スキマは未だ使用不能な状態であり、これは八雲紫の仕業ではない。巻物など他の媒体を利用しスキマを開く事は十分可能だが、基本的にこうした簡易的なスキマ発生の道具は藍に渡している物を含め、全て紫自身がその数を管理している。異変に際しそうしたスキマは先程全て発動し、紫が任意で発動出来るスキマ以外のスキマは今現在幻想郷には存在しない。
 先程までのイレギュラーは、他所から入った邪魔、つまり対外的なトラブルがほとんどだが、今回のイレギュラーは完全に自分達に大きく関わるものだった。

 身に覚えのないスキマが存在した。

 これは八雲紫にとって正に痛恨の一撃だった。
 自分以外の誰かがスキマの能力を使い魔理沙を助けたとするなら、それは紫自身の存在価値、存在理由に関わる大きな事件である。
 八雲紫は生涯に於いて最も激しい精神的ショックを受けていた。
 完全に脳が凍結し、思考する力が完全に失われた。そして、紫以上に藍もショックを受け、主が立って居られず寄りかかって来るのも気づかず立ち尽くしてしまい、危うく主に恥をかかせるところだった。
「(どういうことだ!何故スキマが開くのだ!)」
 あらゆる可能性を示唆してもこの状況を導き出せる答えは出てこない。外部からの干渉によるものなら、幻想郷に於いては全知全能に近い自分達が部外者に遅れを取ることはまずあり得ない。しかし、今回はこちら側の主要能力が何者かに使われたことであり、これは正に未知との遭遇である。単純に考えれば八雲紫が敵にまわったようなものであり、謎のスキマ使いが敵だとするなら、これほど厄介な相手は他にいない。
 危うく床に落としてしまうところだった主の八雲紫は、完全に心身を失調し廃人同然となった。人間ならほぼ死ぬまでそのままだろうが、そこは強靱な肉体を持つ妖怪なのですぐに回復する。今日はその失調と回復の繰り返しで、生きたままじわじわと生皮剥がされているような状態である。
 格下のアリスに罵られた藍だが、反論出来ず飛び去る後ろ姿を苦々しく見つめるしかなく、周囲の目も痛く針の筵にいるようである。
 あのスキマに身覚えがないとしても、スキマといえば八雲紫である以上、知らぬ存ぜぬでは通らない。開き直って『ざまあみろ』などと言えば、もはや強妖怪としての品格が疑われ、畏れを大量に失ってしまう。濡れ衣ではあっても、ここは自分達でかぶるしかなかった。
 藍は生まれて初めて無力という名の絶望を味わっていた。


「ん?うどんげ、何処へ行くの?」
 師匠の付き人として会議に参加していた月の妖怪兎レイセンが、持ってきた大きな薬箱を取りに一旦部屋に戻った後、そのままニトリやアリスの後を追おうとしたところを永琳が呼び止める。
「今のはあの魔法使いでしょう?あの水柱の高さから想定すると、たぶん重体以上ですよ!」
 この場合の重体以上とは危篤或いは心肺停止状態を指す。永琳はスキマから高速で飛び出してきた物体が、生身の人間だとすれば、間違いなく即死であり、うどんげの見立ては甘いと思ったが、敢えてそれは口にしない。
「何してるんですか師匠、今ならまだ間に合います。速く行きましょう!」
 師匠に呼び止められたレイセンは、呼び止めた当人の所に戻って二の腕を抱え上げて出立を促す。永琳は弟子の意外な行動に面を喰らう。
「私が?」
 傍観に徹しこれ以上異変には関わらないと決め込んでいた永琳は、自分を巻き込もうとする弟子を怪訝な表情で伺う。
「怪我人を救助するのが私達の役目でしょう?」
「それは確かにそうだけど・・・。」
 永琳は弟子に言われるまで忘れていた。会議の主要メンバーであると同時に一応救急医療班という肩書きも持っていたのだ。
「でも、あれでは助からないわ・・・。」
「あのまま放っておけばそうですが、私達には助けられるでしょう?」
「何の為に?」
「な、何の為にって・・・助けられる命がそこにあるからでしょう!」
 何時になく熱く語るレイセンだが、彼女はつい最近まで自分から主体的に動く事はほとんどしない役立たずだった。異変の前哨戦で幻想郷の滅びの前兆を察知した蓬莱山輝夜が強制跳躍し、破滅する未来の一端を垣間見てから、周囲で変化が起こり、そして自身にも大きな変化が生じたのである。師である八意永琳も、妹紅との死闘の末破れ、退化した本能が再起動し今に至っているのだ。
 レイセンが気の入った威勢の良い声で話すので周囲が注目する。その視線を感じたレイセンは永琳に顔を寄せ耳元で囁く。
「(妹紅が言ったんです。目の前の命を諦めるな・・・って。)」
「(妹紅が?いつ?)」
 妹紅の名を聞いて永琳の目の色が変わった。
「(白玉楼に行った時です。師匠とすれ違いで階段を降りてきた時。)」
 あの時、見ず知らずの門番の命乞いでしてしどろもどろになっていた妹紅を思い出す。結局命乞いをしていたことにも気づかず怒らせてしまい、下で待っていたレイセンの命の交換条件を突き付けられた。あの後、妹紅は弟子にそんなことを告げていたのだ。
「行きましょう。」
「あ、師匠待って!」
 連れ出そうとした相手を置き去りにして先に飛び立つ永琳は、直ぐに追いついたレイセンにもらす。
「私達の役目はとっくに終わっているものとばかり思っていたけど・・・。」
「ええ、私達にはまだやることがありそうですね。」
 俄然やる気のレイセンを尻目に永琳は思考に没頭する。
 妹紅は異変を意図的に遅延させた。これは、スキマ砲を撃てなくして、魔理沙を使って直接コアを攻撃させるためだ。
 では何故そんな回りくどい事をするのか?それは魔理沙を利用する為だ。
 では何故魔理沙でなければならないのか?彼女がやる意味は?命を賭けてまでやる意味は?
 結論を導く為に必要な情報が明らかに少なく、これ以上推論を組み上げても確率論の話しにしかならない。
 確かな答えを導く上でのヒントがないわけではなく、それが、妹紅がレイセンに告げた『目の前の命を諦めるな』と言うメッセージである。
 このメッセージから一つだけ分かる事がある。それは魔理沙の死が予め想定されていたことである。そして心臓が停止した魔理沙を蘇生するという任務が遠巻きに依頼されていたのだ。
 生かすなら別に殺す必要はないのではないか?普通に生き続ける事と、死を挟んで蘇生する事と、何か違いがあるのだろうか?死の淵から生還すれば、死生観が変わり魔理沙本人に良い影響が出る可能性がある。妹紅は単にそれを期待してこんな策を弄したのだろうか?
 死生観など魔理沙の教育上の問題なら、別に異変にかこつけなくとも、普段の生活の中で危機を演出しいくらでも同様の事が出来るだろう。
 幻想郷を巻き込む危険を冒してまで魔理沙を殺し、そして生かす意味。
 永琳は心臓の鼓動が普段より速くなっている事に気づく。興奮しているのだ。
 自分に理解出来ない事は無いと自負し、あらゆる事象に理由を付けて、理論的に説明出来ないものに、無理矢理理論を当てはめ異論を全て排除し全知全能と悦に浸っていた。
 今は違う。謎、謎、謎、謎だらけ、分からない事だらけ、理屈の通じない不確定要素で満たされた幻想郷の暮らしが楽しくてしようがない。
「あの娘を助けた先に、きっと答えがあり、そして新たな謎が浮かびあがるのでしょう・・・楽しみだわ、ふふふ。」
 八意永琳は謎に包まれた妹紅に魅了されていた。
東方不死死 第73章 「天地攻防」


 懐かしい声が聞こえる。
 色褪せた記憶の中に確かに存在する、力強く、そして優しく懐かしい声が、遠くかすかに聞こえてくる。
 しかし、忘れられない声なのに、その声の持ち主が誰なのか咄嗟に思い出す事が出来ない。もどかしい。
 それほど多くない記憶の人名リストからその声の主を探してみたが、朧気に人物像が浮かぶだけではっきりとした『誰か』には想い至らない。
 おかしい・・・何か変だ・・・。よく知っているはずなのに、何故か顔も名前も思い出せない。
「(・・・そういえば私は誰だっけ?)」
 どこで会ったのか記憶を遡ってみると、他者との関連性の起点となる自分自身が誰なのか分からない事に気付き愕然とする。仮にその相手の名前が分かったとして、自分が誰なのか分からなければ意味がないのではないか。
「(私は・・・誰だっけ?)」
「(・・・さ。・・・りさ。)」
「(ん?また、あの声だ・・・。)」
 いつの間にか途絶えたさっきの声がまた聞こえてくる。遠くから聞こえてくるようなその声は、次第にはっきりと発音が聞き取れる様になったが、まるで異国の言葉でも聞いているかの様で意味が全く頭に入ってこない。
「まりさ・・・まりさ。」
 その声は『ま』『り』『さ』とこの3文字を1セットとして繰り返し言っているのは理解出来た。しかし、『ま・り・さ』とは一体何なのかがわからない。

 自分が誰でどこで何をしているのか全く分からないのに、不安はなく何故かとても気分が良い。不思議だ。
 あらゆる抑圧から解放され、水の中、或いは空の上をふわふわと漂っているかの様で、自分や他人の名前などどうでもよく感じてくる。
 身体が軽い。何も身に着けていないようだ。ふと、その軽い身体をまさぐろうと手を動かそうとした時、肢体の感覚が無い事に気付きギョッとし、あるかどうかも分からない『肝』が冷える感覚だけを覚える。
 その時、虚ろな夢から現実に強制的に引き戻されたかの様に、ふわふわしていた身体が突然重力の干渉を受けて、急降下していく感覚に陥る。そしてそれを無感動に他人事の様に冷静に感じている。
 堕ちていく。
 自分の精神と身体が一つになっている実感がない。肉体は何やら大変な事になっていることは頭では分かっているのに、実感が湧かずどこか他人事になってしまう。
「まりさ・・・まりさ!」
 また、声が聞こえてくる。その声は自分に向けられているとはっきりと確信できた。そう、自分はよく知っているはずの忘れてしまった誰かに呼ばれているのだ。そう、『ま・り・さ』とは自分の名前だったのだ。
「私は・・・まりさ・・・。」
 口を開くと声が出て、途端に五感が復活し、猛烈な暑さを感じ無理矢理現実に引き戻された。
「そうだ、お前は魔理沙だ。漸く気付いたか?」
「あ、なんだ魅魔様か・・・おはよう・・・。」
 心地よい夢から覚めて現実に戻った魔理沙は、最初に視界に入った見覚えのある顔を見て、無意識にその名前を口に、余りの心地良さに二度寝しかける。
「・・・え?」
 そして重要な事に気付いて飛び起きた。
「み・・・魅魔・・・様?あれ?何で?」
「どうした魔理沙、私はここにいるぞ?」
 柔らかいソファーの上にゆったり座っている様な感覚だった魔理沙は、そこが、魅魔と呼んだ人物の膝の上だと理解出来た。
 悪霊の大魔導師、そして自分の師匠であり母の様な存在、魅魔だ。
「何でここに魅魔様が?たしか・・・死んだはずじゃ・・・。」
 目をパチクリさせ、驚きを隠せない様子の魔理沙だが、魅魔が復活したのではなく、自分が死んで魅魔のいる死後の世界とやらに来てしまったのではないかと思い至り思わず言葉を詰まらせてしまう。
「悪霊がそう簡単に死ぬものか。お前が『自律動作』出来る様に隠れておったのじゃ。」
 周囲の温度が人体に悪影響を及ぼす危険水準に達するタイミングで発動する、妹紅の召喚呪符で再び魔理沙の中から現世に召喚された魅魔は、どんな顔をしていいのか分からない魔理沙の心中を察し、安心させるように力強い口調で健在を示す。

 藤原妹紅は、紅魔館に関する諸々で数回魅魔を召喚した後、異変に対する具体的な作戦行動が定まった際に、再度魅魔を召喚して協力を仰ぎ、快諾した魅魔にその役割を伝えていた。その妹紅は現在、不死鳥の浄化の炎の中で擬似的な死を体験し、あの世の手前である人物を待っているところである。
 魅魔は妹紅から魔理沙完全復活の段取りを事前に知らされているため、この危機的状況でも冷静でいられるが、何も知らない魔理沙は当然状況を把握出来ず、記憶も混濁し様々な感情が入り混じった複雑な表情をしている。
 魔理沙は10歳の時、吸血鬼戦争で敗れた吸血鬼始祖の魂の安息を乱し、怒った彼らによって為す術も無く魂を切り離されてしまった。それを魔理沙の守護霊として見守っていた母サーヤの機転によって肉体と魂は切り離されたまま別々に保持され、その後駆けつけた魅魔が死霊術で、その2つを繋ぎ合わせたのである。
 その死霊術の奥義は、本来は別々の肉体と魂を繋げる術だが、同じ人間のものなら蘇生術と同義である。しかし、蘇生術とは違い死霊術は、被験者と術者の間に主従関係を造り、僕にして支配するというルールがあるため、魔理沙はそのルールに従って魅魔の虜となって隷属し、性格が一変し別人になってしまったのである。
 命を繋ぎ止める為に一時的に死霊術をかけた魅魔は、その後元の人間だった頃の魔理沙に戻そうと様々な実験を試みるが上手くいかなかった。
 ある時、特性の違う術をいくつも重ね掛けしたせいで、大元の死霊術が不完全な状態になってしまったが、この時魔理沙は一瞬だけ元の性格に戻ったのである。術を完全に解けば魔理沙は元の人間に戻るのは道理だが、それは人間として完全に死ぬ事を意味していた。
 偽りの人間、操り人形として生かすか、いっそのこと人として死なせてやるかの二択である。しかし魅魔は、魔理沙を人として完全復活という絶望的に難しい選択を捨てきれなかった。
 熟考の末魅魔は、術の解除によって切り離れていく肉体と魂を、死霊術ではなく別な方法で結びつけるアイデアを思いつき、自らがその繋ぎ役になる事を決意したのである。 
 肉体と魂を縛る鎖となって魔理沙の体内に隠れる事を決めた魅魔は、周囲が納得出来る尤もな理由を作るために、死霊術の影響で人格が変貌した魔理沙を率いて封魔異変を起こし、霊夢と対決するどさくさに紛れて死を偽装し、魔理沙に掛けられた死霊術を解き、その肉体に鎖となるために自ら封印されたというわけである。
 今起こっているこの状況は、妹紅の術によって魔理沙を仮死状態にした間接的な召喚ではなく、完全に肉体と魂を結ぶ鎖としての術を解いてしまっているため、魔理沙の肉体と魂が剥離しはじめている。次第に体温が低下し、数時間で死に至るが、この高温状態が魔理沙の体温低下を緩やかなものにしていた。

 改竄していた忌まわしい死の記憶の封印が、死霊術の解除と共に呼び覚まされてしまう魔理沙は、大量の情報が脳に押し寄せ処理が追いつかず、暑さではない別の苦痛で表情が歪んでいく。
 自分自身がままならず、頭を抱えて苦しむ愛娘を優しく包み込む母親の顔となっている魅魔。
「すまなかった魔理沙。ちゃんと躾けていればこんな事にはならなかった・・・霊夢も幻想郷もこんな事にはならなかったはずだ・・・。全て私の責任だ・・・ゆるしてくれ、魔理沙・・・霊夢・・・紫・・・。」
 自分の失態で今なお苦しめ続けている者達への謝罪をしつつ、苦しむ愛娘を強く抱きしめる魅魔。
 母と娘の再会。しかし、その余韻をいつまでも味わっている時間的余裕はない。膝から下をゲル状にし、妹紅の呪符結界を補強し室温の上昇を緩和させる魅魔だが、結界内部の室温は刻一刻と上昇し続けている。
 このままでは危険と感じた魅魔は、自分自身に渇を入れて魔理沙に対し厳しく迫る。
「魔理沙よ。いつまでそうしている?お前が今すべきことは何だ?」
 復活しぐちゃぐちゃになった記憶を辿る作業に思考をとられていた魔理沙は、魅魔のその言葉を聞いてはっとなって周囲を見渡した。
「これ以上ここに留まるのは危険だ。どうする?逃げるか?」
「い、いや、ダメだ、アレを壊さないと・・・私、その為に来たんだ。」
 頭の回転が速い魔理沙は、今優先してやるべき事を思い出し思考の比重を切り替え、溢れかえる封印された思い出の整理を一旦脳の片隅に追いやる。
「なるほど、アレか・・・しかし、魔理沙はアレが今どこにあるのか見えておるのか?」
 アレとは永琳の防御要塞の中枢制御コアの事である。
「外が全く見えないんだぜ!全然わからねーよ!魅魔様は分かるのか?」
 聞きたい事、考えたい事が山程あったが、今は自分に課せられた任務の遂行が先だと気持ちを切り換える魔理沙。この様に思考を素早く適切に切り替えられたのは、今まで冷たかった背中のチルノがぬるく感じられ、氷の妖精に命の危機が迫っている事を直接肌で感じていたからである。
 目の前の事象にこだわって大義を失する昔の魔理沙から少しは成長していると目を細める魅魔だが、直ぐに頭を切り換え、不肖の弟子にこの場の凌ぎ方を伝授する。

「当たり前だ!」
「どこにあるんだよ!」
「アレは今、空から落ちてくるのは分かるな?」
 焦りで喧嘩腰の魔理沙の質問に力強く答え、別の質問で返す魅魔。今は母子ではなく師弟関係である。
「う、うん。」
「位置を絞り込むなら、先ずは天地を認識し、正しい基準を作る事だ。」
「天地?どうやって・・・なんとなくわかるけど目印が全くないし・・・。」
 魅魔はそこで魔理沙の頭を痛みを感じる程度にポカリと叩く。
「あ、痛!」
「今、この場、つまり空、天は炎の属性に支配されている。」
 魅魔は夥しい炎の属性を利用してヒントを言う。
「・・・そうか!炎の力が少ない方が地面か。うーん・・・。」
 魔理沙はすぐに要領を得て、属性を感じ取る為にしばし精神を集中する。
「・・・こっちだ!こっちが地面だ。」
 そう言って魔理沙は、地表面に対しほうきを水平にさせる。
「先ずは合格だ。では、次にアレの正確な位置だ。」
「う・・・。」
「わからんのか?地面を見つけた時と同じ要領で、多少の応用を利かせれば簡単であろう?」
「応用?」
 背中のチルノの息が荒くなっている。魔理沙は早くこの謎を解かないとまずいと焦る。
「空は全面炎という単一の属性だ。」
「あ、そうか!中心コアは直径数キロの物体。そこだけ属性が存在しない!」
「うむ!早くしないとその妖精、溶けてしまうぞ。」
 魅魔は背中に何故かくくりつけられている氷の妖精に魔理沙が意識を取られている事に気付いて、それを利用して魔理沙を急かせる。理屈で分かっていても実際に中空の一点を絞り込むのは上級魔法使いでも難しいだろう。
「うーん!」
 魔理沙は再び精神を集中させ、2人がアレと呼ぶ永琳の防御要塞の中心核を探す。
 妹紅に貰った属性眼鏡を使えば簡単に見つけられるだろうが、外に持ち出しは禁止なので家に置いてきている。しかし、その時の属性の見え方と感じ方を具体的に体験出来た魔理沙は、炎の属性を示す赤いイメージの中に一点の空白地点をすぐに見つける事が出来た。
「あった!あそこだ!」
 妹紅の呪符と魅魔のゲル状の身体で包まれた、全く外を見通す事が出来ない閉鎖空間の天頂方向目掛けて指を指す魔理沙。
 直径約2キロメートルの永琳の防御要塞の中枢コア。決して小さくはないが、この広大な空の中のしかも10キロメートル先に存在す空白地点を瞬時に見抜くのには、属性に対するそれなりの知識や練度が必要だろうと思い、もう少し時間を要すると魔理沙を侮っていた魅魔は、その早さに素直に感嘆の意を示し、愛娘の成長を喜ぶ。
 約5年の歳月で、魔法使いとしてそれなりに成長している事が分かって嬉しくなる魅魔。それと同時に、自分が不要になるかもしれないと、師として寂しくも感じる。
 端から見れば単なる親バカ、いやバカ親な魅魔のこの辺は、魔理沙の成長に比べ、5年前と少しも変わっていなかった。

「魔理沙、一撃で仕留めて見せよ。」
 可愛い娘の頭をなで回して褒めてやりたい気持ちをグッと堪え、魅魔は敢えて魔理沙に厳しい要求をする。
「そんな無茶な・・・もっと近づかないと・・・。」
「氷の妖精が溶けてしまってもいいのか?」
 魅魔にとってはどうでもいい一匹の妖精だが、魔理沙にはとても重要な存在のようである。その理由に興味はあるが、今は何も聞かずこれを有効に利用するだけである。
「あ、そうだった・・・くそ!やるしかないか!あ、でも、ここで撃っても大丈夫かな?」
「妹紅の呪符結界を私自身が包み込んで補強している。私を通してエネルギーは外に抜けるから安心しろ。」
 この結界の仕組みの簡単な説明を盛り込んで問題ないことを伝える魅魔。
「・・・分かった。やってみる!」
 魅魔は覚悟を決め魔法使いの顔になった魔理沙を見て昔を思い出す。妖精を相手に魔法の練習をして、たしなめても言うことを聞かず、蟻を踏みつぶして楽しむ幼子の様に小妖精を炭化物に変えていた魔理沙。今は、その妖精の命を守るために懸命に働こうとしている。
 人の道を踏み外し一度、いや今現在も人外に成り下がっている愛娘だが、今こうして人として保たれている事に、重罪を犯してまでも封魔異変を起こした甲斐があったと、自分を慰める魅魔。
 
「マスタースパーク!」
 視認できない標的めがけて得意の呪文を唱える魔理沙。
 ミニ八卦炉を媒介し魔界の門が開いてそこから大量の無属性エネルギーが放出されると、魅魔の身体と一体化した妹紅の結界の内壁を貫通して、純白の獄炎の中を一筋の極彩色の光の矢が飛翔する。
「・・・。」
「手応えあったか?」
 マスタースパークを撃つモーションのまま静止する魔理沙に声をかける魅魔。
「たぶん、当たったと思う・・・。」
「うむ。しかし、アレはまだ無傷だな。」
「確かに命中したはずなのに!」
「この炎熱で消滅しないとなれば、相当な強度を持つ物体であることに間違ない。」
「くそ!マスタースパーク!」
 魔理沙の魔法使いとしての売りの一つはパワー、力であり、他の妖怪が非力な人間の少女に一目置く理由が、風見幽香と同系の技マスタースパークを撃てる事である。
 人間の魔法使いを自称する霧雨魔理沙にとって最も得意な魔法であり奥義でもあるマスタースパークで破壊出来なかった事は、魅魔が端から見て思うよりも自身ショックが大きかったようである。
 魔理沙は悔しくてがむしゃらに呪文を乱射したが防御要塞のコアを破壊するまでには至らなかった。
「(子どもの頃に教えた通りのやり方か・・・そこは全く成長していないか・・・。)」
 風見幽香が独自に創意工夫し威力の向上を研究して星すら破壊しかねない高出力レーザー『サニー・レイ』を完成させた一方で、魔理沙は5年前に教えた通りの方法でしかマスタースパークを撃たなかった事に落胆する魅魔。
 これは魔理沙の魔法使いとしての資質が足りないというより、吸血鬼スカーレット姉妹同様に成長を意図的に抑えていたからである。もし、風見幽香のように自在にこの力を使い始めたら、幻想郷の脅威対象として排除される危険性があったので、この様なセーフティを施したわけである。しかし、無能な弟子の実力を間近で見てしまうと流石に師としては複雑な気分である。
「(この様な特殊な状況下はむしろ資質を伸ばしたり、発想の転換や固定概念の払拭に利用出来るが、今の魔理沙では無理であろうし、時間的にも肉体的にもそろそろ限界だな・・・。)」
 結界内の室温は40℃に達しようとしていた。気が張って集中力が維持できている間は大丈夫だが、一旦気が萎えるとこの環境では回復は難しい。魅魔はここが魔理沙の肉体的な限界とみて予定通り介入する。
「何で壊れないんだ!」
「魔理沙、これでは埒があかん。力を貸そう。」
 魅魔はそういうと指をパチンと鳴らす。
 キョトンとする魔理沙を尻目に、ニヤリとする魅魔。数秒後、防御要塞の気配が消える。
「な!魅魔様なんだよそれ!私にも教えてよ!」
 魔理沙と初めて出会った時、追い払おうと使った魔法を見て、目をキラキラさせて教えて貰おうと悪霊に食い下がる幼いあの時の顔と全く同じ顔がそこにあった。
「特別な魔法ではない。ただ、コアを急冷しただけじゃ。」
「・・・あ!そうか!」
 魔理沙は、妹紅と幽香が要塞に攻撃した時、妹紅が要塞を熱し、幽香がそれを冷やして破壊すると予想してみせたが、今魅魔がやったことは正にそれだった。
 どんな材質でも急激でしかも大幅な温度変化を加えれば性質が変化する。それを利用して材料を堅くしたり、粘りをだしたりなど出来るが、数億度から一気に絶対零度まで下げ、それを数億度の炎に戻せば、分子構造が壊れて元の性質と形状は維持出来なくなる。一旦どこかに歪みが出ればあとは一瞬である。
 魅魔は簡単だと口にはだしてそう言っているが、実は温度を下げるのは上げるよりも遙かに難易度が高く、絶対零度にまで温度を下げるのは、高い魔力と高度な魔法技術、そして生まれ持っての素質が必要なのである。

 この魅魔のやり方には重大な問題があった。それは要塞の中枢コアを爆発させてしまう事である。
 魅魔の力を持ってすれば、強力な魔法攻撃で爆発の機会すら与えず蒸発させることが出来るが、これは妹紅のオーダーに従った結果である。
 妹紅は要塞中枢コアを爆破させる事で、霊夢の結界に負荷を与え、この異変を企画した側に大きな責任と負担をかけさせ、安易に異変解決をさせないように目論んでいたのだ。
 魔法使いとして余りの実力差を見せつけられた魔理沙は完全に意気消沈し、更に任務を達成したことで緊張感が萎え沈んで一気に疲労が襲う。
 任務は達成出来たものの脱出の手段が無く、暑さにも耐えきれず、冷静さを失いあわあわと焦り始める魔理沙。
「やばい!はやく脱出しないと!」
「慌てるな魔理沙。」
 魔法使いならもっと冷静になれとたしなめる魅魔だが魔理沙は全く言うことを聞かない。
「これが慌てずにはいられるかよ!チルノがやばいって!」
 この氷の妖精がチルノと言う名前であることを初めて知る魅魔。一応妹紅の段取りを知ってる魅魔としては、まだ次のアクションが起きていないので慌てる時間ではない。
 しかし、その慌てなければならない時が唐突に来る。


「魔理沙達は無事なの?」
「・・・さぁ?」
「さぁ?って!どういう事?」
 人形使いアリス・マーガトロイドは、こちらから手も足も出せず膠着状態になった異変と、それに対する作戦会議の無力さに苛立ち、魔理沙をダシにして、河童の河城ニトリを傍らに首謀者達に詰め寄っていた。
 魔理沙によって無理矢理会議に参加させられ、その様子を間近で見ているだけに、竜頭蛇尾とも言える威勢のよかった会議の尻すぼみに苦言の一つも言いたくなる。特にこの異変の裏を知らない第三者のアリス達にはなおさらである。

 この異変を主導的立場で進めるための必須能力であるスキマの力を失った八雲紫と藍は、事態に介入出来る具体的な手段はなく、また、その意思も既に萎えていた。僅かに残った幻想郷の残り時間を紅魔館のメイド長に言われた通り観客としてただ傍観しているだけだった。
 八雲紫は魔理沙が生きているものと想定し彼女と交信をしているふりをして瞑想する様に目を閉じており、周囲への応対は九尾の藍が代理で行っており、会議のメンバーもそれは既に承知していたので、アリスは紫ではなく藍に詰め寄っていた。
「今は紫様にしかわからない、という意味での返答だ。そう怒るな。」
 魔理沙と仲の良いニトリはともかく、何故怒っているのか自分でもよくわからないアリス。ふんと鼻をならして自分の席に戻る。
「(・・・魔理沙・・・。)」
 胸の鼓動が外に聞こえてしまいそうなほど大きく速くなっている。人間から妖怪となってさほど経っていないアリスは、趣味と実益を兼ねた究極の魔導人形の完成の為に必要な膨大な時間を得る為と、脆く不安定な精神を克服する為に妖怪になったはずなのに、嫌いだった人間時代の様に心を乱している自分に苛立ちと戸惑いを覚える。
 威圧感が無くなった九尾に対し、強気に『あっかんべー』をしてアリスの後について席に戻るニトリ。河童という種族は人間好きとそうでないものと2種類いるが、ニトリはその前者で、しかも魔理沙とは個人的にとても仲が良いのでこの状況に怒りを覚えるのは当然の事である。
 アリスは人間から脱却して妖怪の魔法使いとなったが、生活スタイルは人間のままで、商売敵、犬猿の仲である人間の魔理沙よりも人間らしい規則正しい生活をしている。別に人間という種族が嫌いなのではなく、人間としての弱い自分が嫌いなだけだった。そして今、その弱い人間だった頃の自分に戻っていることに気づかされる。そして、その原因があの魔理沙なのだ。
 虫の報せではないが、先程から胸騒ぎが止まらない。こんなことは人間の時以来である。

 小さなバルコニーの真ん中に大きなテーブルを置き、その上に『パチュリー・ノーレッジの幻想郷地図』が置かれている。地図は魔力によって立体化しており、落下する要塞の中枢コアのおおよその位置を観測し、その位置関係と各種情報をリアルタイムで映像化してしている。
 長時間空を見上げるのは人の妖に関わらず大変な作業なので、作戦会議のメンバーは皆この『パチュリーの地図』があるテーブルの上を注視していた。
 アリスが席に戻ってすぐの事だった。全員が何かの気配を感じ上を向く。
「・・・中枢コア・・・消滅・・・。」
 魔理沙のマスタースパークと思しき数十回に及ぶ魔法の捜射の後、一際大きな魔力が発生し、その後永琳の防御要塞の中枢コアが消失する。
「・・・。」
 パチュリーの報告後、すぐに目を開けた八雲紫は視線を真っ直ぐ正面に向け、空を見上げたままの藍と視線を合わせずすぐに目を閉じる。魔理沙がコアを破壊したと思しきタイミングでの紫の小さな動きだったので、誰も特に疑う事はなかったが、当の本人はこの時、凄まじい衝撃を受けて、思わず大声を上げそうだったのである。
 紫と藍は、スキマが消失した事で不死鳥の浄化の炎の中にいた魔理沙はその時点で消し炭になっていると思い込み、その前提で十六夜咲夜の提案に乗って演技をしてきたわけである。
 自分達の予測通りに事が進めば、コアは誰にも阻まれる事無く1時間以内に霊夢の結界に穴を空け、数億度の炎が漏れだして幻想郷が焼失するか、結界を押し下げて幻想郷の大地を圧壊さるか、又は結界と衝突して大爆発を起こして前述の被害にプラスαの被害が付与されるなど、いくつかの推測は成り立つが、何れも幻想郷に夥しい被害が出る予想に間違いなかった。
 可能性は低いが、結界と接触したコアが消滅しそのままの状況が維持できた場合でも、浄化の炎をすぐに外に逃がすことが出来ず、自然鎮火までの間に霊夢が力尽きるか寿命で死んで結界が消失するかなどで、結局は同じ結果になると思われた。
 何れにしても今現在の状況でコアを消滅させる事が出来る存在はこの世に存在しないはずだったのに、それが突然消失したのである。

 紫と藍は思わず顔を見合わせてしまうところだったが、先程何度かそうした失態を演じてしまっていたため、免疫が付いて、寸でのところで思いとどまり平静を装う事に成功した。
「(どういうことだ?あの黒い魔法使いはとっくに消し炭になったはず!)」
 藍はあってはならない事実を簡単に受け入れる事が出来ず誰とはなしに心の中で罵る。スキマ消失で紫と思考共有が出来なくなっている藍は、ここぞとばかりに腹に溜めていたありとあらゆる罵詈雑言を憎き藤原妹紅に浴びせまくってストレスを発散させる。
 そんな藍とは裏腹に、紫は別の感想を抱いていた。
 結界を破壊すると想定していた永琳の防御要塞の中枢コアが消滅した事で、あと数時間以内に幻想郷が焼滅するというシナリオが無くなったわけであり、これは素直に歓迎したい状況である。
 幻想郷放棄という苦渋の決断をしたにもかかわらず、希望を捨てきれずにいた紫としては嬉しい限りであるが、幻想郷を棄て、会議を見限った立場では、発言の機会はもう無いだろう。主役の座を譲り舞台を下りてしまった事が悔やまれてならない。
 紫は後悔しつつ、魔理沙が無事でいられる理由を自分なりに考える。
 想像の範囲でしかないが、妹紅が出発前に魔理沙の身体中に貼ったあの呪符によるものだろう。紅魔館の魔法使いも何かのお守りを渡していたし、怪しい点は今にして思えば多々見つける事が出来た。しかし今となっては後の祭りである。
「(・・・でも。)」
 魔理沙は生存している。ここまではいい。しかし、この後どうやって魔理沙を脱出させるのだろうか?
 転移魔法によって離れた空間に分子移動させることは可能だが、そんな高度な魔法はどう考えても魔理沙には無理である。
 自力他力にかかわらず脱出は絶対に不可能だ。魔理沙はやはり尊い犠牲となるシナリオなのだろうか?
 そういえばあの紅魔館のメイドは『まだ、生きている』と言っていた。
「(まだ・・・つまりそういうことなのね。)」
 魔理沙は異変解決に命を捧げた英雄として祭り上げ、レミリアに向くネガティブな感情を逸らす道具として利用するなのだろうか?
 大魔導師魅魔の復活を知らない八雲紫と藍は、それぞれの思考の及ぶ範囲で同じ結論に到達した。魔理沙を救えるのは、この世に一つしかないスキマの能力だけであり、それが使えない以上霧雨魔理沙の死は確実なのだと・・・。


 神の力を受け、パワーアップし限界突破を果たした霊夢の夢想式結界は、不死鳥の転生による漂白の領域拡大を完全に封殺して幻想郷を守っていたが、空の白い輝きまでは遮る事が出来ず、半透明の紅い結界越しに透けて光が浸透し、幻想郷の大地を薄紅色に染めていた。
「ふふ、綺麗ね。」
 人間の里と呼ばれて久しく、正式な名称が忘れ去られた『博麗の里』の東の門の外に、複数の妖怪を従えた女性が一人佇んでいる。
 最強の妖怪と誉れ高いフラワーマスター風見幽香である。
「リグル、首尾は?」
「完璧です、幽香さん。」
「妖怪の山にもちゃんと播いた?」
「ええ、勿論です!」
「へー・・・天狗の結界は大丈夫だったの?」
「虫だけに無視されました。なんちゃっゲフッ!」
「鴉天狗の質もだいぶ落ちたみたいね・・・。ま、だからこそ異変を起こす意味があるというわけね。」
 幽香の後ろに控えている3人の妖怪の内の一人、虫の妖怪リグル・ナイトバグは2、3会話した後、ご褒美を貰い満足そうに地に伏せている。
 炎に弱いなど致命的な弱点を多く持ち、妖怪としては弱い部類に入るリグルであるが、幽香とは花と虫という相互利益の特別な関係があるため、主従関係無しに特別な待遇を受けていることから周囲の妖怪からも一目置かれている。
「ずるぅーい!そいつばっかり、ご褒美ずるぅーい!」
 2人のやりとりを見て、背が高く美しい金髪とドレスに似合わない大きな鎌を持つ女性が我慢しきれず声を上げる。
「エリーにも約束通りご褒美上げるってば。」
「やったー!」
 先程、ある特殊な嗜好におけるライバル同士となったリグルとエリー。その2人とは別にもう一人の妖怪が少し引いた場所で苦笑いをしている。
「ところで幽香さん、一体何が始まるんです?」
 空が白く輝くと同時に先程まで断続的に続いていた『大地の怒りは幽香の怒り』、ようするに地震が消え、直後大きな爆音と衝撃波が里を襲った。家屋が倒壊するほどの被害は無いようであったが、何かが割れる音や倒れる音、悲鳴などがそこかしこで上がっていた。
 これには里の守護神上白沢慧音が対処しており、幽香達はその横を通り過ぎて里の外に出ていたのである。
 今は喧騒は消え辺りは異様な程静まりかえっている。
 質問をしたのはミスティア・ローレライ。最近、幻想郷東部で屋台を営みはじめた元人喰い妖怪である。
「まー見てなさい。今とんでもない事が起こるから。」
 彼女が怒る以上にとんでもない事などこの世に存在しないのではないかと思うミスティアは、風見幽香にして、とんでもないと言わせる、その『とんでもないこと』が一体どんなことなのか、全く想像できなかった。


「異常なエネルギー反応を感知したわ。」
 パチュリーの立体地図が、警告を示す紅い明滅とアラームを繰り返し作戦会議の場に緊急事態を報せる。
「やはり爆発しましたね。」
 緊急を告げるアラームとは対照的な抑揚の無い無感動なパチュリーの声に相槌を打つ様に、八意永琳がポツリと呟く。場が一瞬ザワッとする。
 圧倒的な神の力で補強された霊夢の結界なら大丈夫ではないかという楽観的な思いと、もしそれがダメだった時は、もはや逃げ場も無くここで全てが終わるという絶望的な思いが交錯する。
「衝撃波が来るわ。みんな気を付けて。」
 全く危機感のない声で警告するパチュリーだが、両耳を塞ぎ、少し首をすぼめるその動作を見て強い力が地上まで到達する事を瞬時に理解した会議のメンバーは各々思い思いの耐衝撃姿勢をとる。
 直ぐに衝撃音がして、大気が大きく振動する。しかし、予想よりもその衝撃は小さく、不死鳥が自爆した、実際には要塞がパージした時の衝撃の方が大きく、大袈裟な態度をとった会議の場は少し白けてしまう。
 パチュリーは、発した警告を真に受けて互いに身を寄せ合っている八雲紫と藍、そして西行寺幽々子の大物達の姿を見て内心クスクスと笑いながら、口に出しては失敬と詫びつつ、爆発の衝撃をまともに受けて、地上への被害を最小限に食い止めた霊夢の結界が、その圧力で押し下げられ地上に急接近しているという重大な事実をサラリと伝える。
 一斉に空を向く会議のメンバー。
「スピードは?それと魔理沙は今どうなっているの?」
 指揮官として名実共に会議のメンバーに認められ、噎せ返るようなカリスマオーラを醸し出すレミリア・スカーレットが、この状況で優先順位が下がり忘れ去られようとしている人間の魔法使いの安否を喚起させるために親友のパチュリーと、裏の事情を知らず参謀役として未だ頼りにしている八雲紫に両名に問う。
 レミリアはこの段階においても、八雲紫が全てを掌握しながら異変が進められていると思い込んでおり、作戦で選出したメンバーを絶対に死なせまいとして、魔理沙の安否の鍵を握る紫への信任を厚くする。
「時速約30キロメートル。このまま停止しなければ5分もたたない内に幻想郷はぺしゃんこか、妖怪の山の剣が峰で結界が破れて中の炎がぷしゅーっとこっちに出て来てしまうわね。」
 抑揚のない棒読みで事情を半分ふざけた様に説明するパチュリーは、最後にお手上げのポーズをとる。これで終わりだと思っていないパチュリーだが、敢えてそう見せて幻想郷の危機的状況を煽って見せる。
「ふざけないでパチェ!」
「だって、どうにもならないわ。」
「スキマで圧力を逃がせないの?」
「そんなこともうとっくにやってるでしょう?」
 そう言ってパチュリーは紫と藍の方を伺う。そして、場の全員がそちらに注目する。
「全力でやっているが、如何せん熱量が多すぎて全く捗らない・・・。」
 咄嗟に九尾の藍が主に代わってパチュリーに合わせた尤もらしい言い訳をする。
「何にしても最初に時間を掛けすぎたのよ。」
 パチュリーは敢えて紫らの責任を問わず、時間を掛けさせた張本人ともいえる親友の顔を睨む。犯した失態を思い出し恥じらいと悔しさの入り混じった表情で口をつむぐレミリア。
「(私たちの仕事はここまでね。あとは藤原妹紅のお手並み拝見といきましょうか・・・。)」
 この絶体絶命のピンチをどうやって挽回するのだろうか?少し前の自分なら絶望に絶えきれずストレスで持病の喘息の発作を起こし失神でもしていたことだろう。今は自分でも信じられない程落ち着いている。これが諦めの境地というものなのだろうか?いや違う、心は落ち着いているが、次に起こる何かを期待して少なからず興奮している自分がいるのだ。
 親友に苦言を呈されたレミリアだが、パチュリーがしれっとしている時は、それが彼女の本領が十二分に発揮されている最も良い状態である事を知っているので、心強く感じ気持ちが落ち着いてくる。
 これまでのレミリアなら、仲間を信頼しつつも自分の思い通りにいかない状況に腹を立てて八つ当たりの一つもしていたところだが、今は大人しく我慢している。そんないつもと違う大人の対応が出来ている親友の様子に目を細めながら、パチュリーは一つ面白いことを思い付いた。
「ねぇ、レミィ?」
「な、何?パチェ。」
「天が落ちてくるわね。流石にお手上げだけど・・・貴女はどんな奇跡でこれを回避するつもりなの?」
「え?それは、運命を操る力で私にどうにかしろってこと?」
 パチュリーの突然の質問に、その意味を咄嗟に理解して察しの良い質問で返すレミリア。ここは恐らく藤原妹紅が自分達の及ばない策を弄してあっと驚かせるのだろうと勘ぐっているが、これをレミリアの運命操作として彼女の功績にすげ替えられないかと咄嗟に思いつくパチュリーである。恐らく妹紅もそれを望んでいるはずである。
「ええ・・・フランはどう思う?」
 レミリアが即答を避けたので彼女の呪いを破壊した影の功労者、フランドール・スカーレットに質問を振る。
「簡単だよ。つっかえ棒をすればいいんだよ。」
 余りにも幼稚過ぎていい大人が口に出せない実に子どもらしい答えが返ってきて、思わず場が和む。
「レミィ、フランの希望叶えてあげたら?」
「ちょっと、急に無茶言わないでよ!」
 今はもう、人智の及ぶところから離れ、天がどう采配を振るうかを待つしかない状況である。
 パチュリーが冗談半分でレミリアをけしかけるが、会議のメンバーはこの場で最も頼りになるパチュリーのその様子を見て万策尽きた事を知り、開き直って緊張が緩む。そして館内にいた妖怪達が状況を確認しようと外に出て空を見上げ紅魔館の外が騒がしくなる。
 その時である。突然大きな音が西の方から聞こえてきた。
 西を見ると、落ちてくる霊夢の結界が妖怪の山の尖った2本の峰を磨り潰す様子が見えた。空全面が結界なので距離感が掴めず、どのくらい押し下げられたか分からなかったが、妖怪の山の剣が峰に到達したと言うことは、結界と地表面までの距離が1500メートルを切った事になる。
 緩んだ場が再び緊張を始め、いよいよ終焉の時と覚悟を決める。
「それにしても、何という結界かしら・・・。」
 永琳が霊夢の恐るべき潜在能力の高さに素直に感嘆の意を示すものの、どこか他人事だった。
 もはや、この状況に対抗できる術を持つ者はどこにもおらず、永琳の隣でレイセンは絶句して立ち尽くし、死神小野塚小町は言葉を無くした上司の横であははと笑うことしか出来なかった。
 いよいよ幻想郷崩壊の時を察知した九尾の八雲藍は、コアの破壊で一瞬芽生えた希望から奈落の底に落とされ茫然自失している主の八雲紫と手を握り合っている同じく呆然としている西行寺幽々子の肩を包むように抱き、そのまますり足で音を立てず閻魔四季映姫の元に歩み寄る。そして、先程主から手渡された幽冥結界行きの片道スキマの巻物を取り出そうと懐に手を伸ばす。
 会議の他のメンバーはバルコニーの先端から紅魔館の屋根越しに、磨り潰される妖怪の山をただ唖然と見ているだけで、藍の行動に気づく者は八意永琳以外にはおらず、彼女はその様子を見て見ぬ振りをして皆と同じように西を眺めていた。


「ふふふ・・・。」
 自身の言ったとんでもない事が起こり、それを歓迎するように含み笑いをする最強妖怪。
「これこれ、これを待っていたのよ!」
 誰も歓迎していない、落ちてくる霊夢の紅い結界を歓迎する風見幽香。
「幽香ちゃん!どうしたの、頭逝っちゃったの?げふっ!」
 死神エリーがそんな幽香を心配して近寄ったが、次の瞬間大地に強制的にキスをさせられる。それを見たミスティア・ローレライは、幽香と天井を交互に見ながら後ずさりを始める。幻想郷から逃げだしたい衝動に駆られるが、逃げようにも最強の妖怪の側以外に安全な場所がいくら考えても見当たらず、次の瞬間殴られるのを覚悟で幻想郷で最も安全な場所、幽香の下に集まり腰にしがみついて助けを乞う。そしてリグルもそれにならう。
「ふふふ、最初はただの保険のつもりだったけど・・・運命に絡め取られた以上こうなるしかないわけよね。」
 妹紅が中心となり妹紅の思い通りに進む異変の性質をいち早く見破った風見幽香は、悟りを開いた如来の様に目を細める。
「さぁ、みんな、大きく育つのよ。」
 そして、静かに右腕を前に差し出し、肘を折って目の高さに上げた拳から親指と中指を差し出し、軽くパチンと弾き、小気味のいい透る乾いた音が周囲に響かせた。


「(さらば幻想郷、いい実地試験になったよ。この教訓を次なる幻想郷へ繋げよう。それがせめてもの手向けだ。)」
 九尾八雲藍は精神的にすでに限界を超え、正常な自律動作が出来なくなり寝たきり老人の様になってしまった主の八雲紫と、冥界の住人である西行寺幽々子、四季映姫、小野塚小町を自分の側に置き、使い捨ての簡易スキマ移動の巻物を取り出して開き、術の発動を今正に行うところだった。
 主ほどこの幻想郷に愛着があるわけではない藍でも、流石にこの最期の場面は感慨深いものを感じずにはいられなかった。

 その時だった。

 西の妖怪の山の山頂部が見えるバルコニーの先端に集まっている他のメンバーの方から一際大きな声が上がる。こっそりこの場を去ろうとしていた藍は、それが見つかってしまったと思い、捨てぜりふの一つも言ってやろうかとその声の方を向き、そこであり得ないものを見てしまった。
「な、何だあれは・・・。」
 藍は絶句した。幻想郷の大地から無数の触手の様なものが天に向かって高速で伸びていくのである。
 細い触手の様な何かは、最初は細く自重で折れ曲がってしまいそうなほど弱々しかったが、途中から径が太くなり、逞しい巨木の様になって空へ向かって伸びていった。
 紅魔館の周辺もそうしたものが次々と生え出し、それらにとり囲まれて視界が限られて行く。
 巨木の様な筒状の物体は濃い緑色をしており、上空に緑の筒から横に生え出た大きな葉の様なものが見える。それは、あまりにも大きさが違い過ぎるが、特徴的な花を咲かせるある植物の形状と類似していた。
 その場にいる全員が同じ植物とある人物の名前を脳裏に浮かべた。
「これは・・・大きなひまわり?」
「か、風見幽香!?」
 向日葵は風見幽香のトレードマークの様なもの。誰もがこの光景を見て彼女の名前を思い浮かべる。
 先程の要塞を浮かせた超弩級の攻撃といい、再三に渡り幻想郷を守らんとする風見幽香の孤軍奮闘に幻想郷の住人達は感銘を受けていた。

 巨大な向日葵の幹は、空へ向かって長く伸びながら大輪の花として成長していき、天地を分ける霊夢の結界に衝突し、どーんどーんという遠くで上がる花火のような音を空全体に響せる。
 薄紅色に輝く天空に向かって一心不乱に伸びる向日葵の群れは、幻想郷で最も太い木よりも遙かに太く、その太い幹より更に数十倍大きな花を咲かせ、そのまま霊夢の結界にぶつかり、更に上へ伸びようと懸命に成長を続ける。
 巨大向日葵は、要塞の中枢コアの爆発で押し下げられている霊夢の結界に頭を抑えられつつも、それに抗う様に必死に背丈を伸ばそうとするも敢えなく成長限界に達し、頭花が折れてたちまち枯藻屑となって中空に霧散する。しかし、向日葵は最初に生え伸びたものだけではなく、後から後から枯れ消える仲間の屍を超えて空を目指す。
 一年草である向日葵の数カ月の寿命を十数秒に凝縮した命の大パノラマが繰り広げられている。
 その光景はまるで、弱者にとっては大自然の偉大さを、強者にとっては自己の無力さを思い知らせているようであった。

「結界の降下速度が落ち始めたわ。」
 向日葵1本あたりの生存時間は極めて少ないが、継続してこのサイクルが繰り返されるので、まるで自動装填式の散弾銃を無限に撃ち続けているようなものである。その結果、それを受ける霊夢の結界が次第にその降下速度を落としていく。
「(ま、またしても風見幽香か!)」
 藍は開こうとしていた簡易スキマの巻物の発動を思い留まっていた。と、言うより余りの驚きでそのタイミングを逸したと捉える方が正確だろう。もし、スキマを開いて幽冥結界まで移動し、会議という最前線から姿を眩ましていたら、逃亡者として臆病者のレッテルを貼られ、大量の畏れを失い妖怪としての立場を著しく悪いものにしていただろう。

 それぞれの思惑はともかく、永琳の防御要塞に関わる脅威はこれで全て取り去った。このまま行けば確実に結界の降下は止まり、結界が維持されている間は幻想郷が滅ぶ事はないだろう。問題は結界の向こうに留まっている不死鳥の浄化の炎である。
「(直ちにどうにかなるという状況は無くなった。しかし、幻想郷放棄という選択肢は未だ上位にある。)」
 押し下がる結界はそのスピードを緩めていき、間もなく停止すると、今度は上昇に転ずる。
 妖怪の山の結界に磨り潰された二本の峰は半分以上削られて、その特徴的な姿が失われてしまった。守矢神社は恐らく無事だろうが、峰の残骸が周囲に大きな被害を及ぼしている可能性が高い。
 比良山次郎坊の『西側にも影響を及ぼす大きな異変』というオーダーには完璧に応えられたはずであり、そちらの始末は言い出しっぺの旋風につけてもらうのが筋だろう。
「(後は、スキマがいつ復活するか、霊夢がどこまで持ちこたえられるか・・・だな。)」
 藍は元いた場所に戻って何事もなかったかのように振るまい、早急に対処すべき危機が去ったと安堵しつつ、次の展開に思考を巡らせる。兎に角、ここ数時間から数日の時間的余裕は出来たはずである。

 結界の上昇に転ずるタイミングに合わせる様に巨大向日葵の密度は急速に薄れていき、間もなく何事も無かった様に幻想郷は静寂を湛える。