東方不死死 第77章 「分岐点」
幻想郷東部を中心に多くの人妖を巻き込んで大規模な戦争へと発展した今回の異変。
結果的に藤原妹紅の想定した通りの結末で異変は解決されるわけであるが、現段階ではまだ異変の真っ最中にあり、山場を越えた兆しは見えたものの、最終的な結果がどの様な状態になるか分からない未確定要素の多い不安定な状況だった。
「妹紅は今頃あの光の向こうか・・・無事に戻ってこれればよいがのー・・・。」
高い知名度を利用して、密かに異変の首謀者側に与して暗躍した永遠亭の妖兎因幡てゐは、その役目を終えて、桃色に染まった幻想郷の空を眺めながら、こっそりと迷いの竹林に戻り偽装の為とはいえひどい怪我を負った身体の回復に務めようとしていた。
我が家とも言える永遠亭に直接戻らなかったのは、怪我を負わせた張本人の蓬莱山輝夜が一人留守番をしているからで、レイセンと永琳が居ない以上、暇を持て余すこの御姫様の面倒を見させられるのは明らかで、今は兎にも角にも身体を休めたかったてゐとしては、永遠亭に戻る選択肢は無かったわけである。
深手を負わされ危うく祟り神になりかけたが、その苦労の甲斐あってか誰も偽装を見抜ける者はなく、永遠亭との不仲を信じ込ませる事に成功した。結果オーライだったので、怪我の件は水に流す器の大きいてゐである。
「妹紅、ちと隠れ家を借りるぞい。」
昔はそれなりに立派な佇まいの家だったが、度重なる永遠亭との抗争に巻き込まれ、今では見るも無惨な廃材の掘っ立て小屋に成り下がってしまった妹紅の隠れ家。事情を知らない者がこれを見れば、ただのゴミの山に見えるだろう。
人が住むにその役をなしていない小屋ではあるが、この地下に向こうの世界から持ち込んだ妖術使いの数々のお宝が保管されている重要施設で、てゐは妹紅に頼まれてそれらのお宝を守っており、唯一ここへ入る事を許されていたのである。この家が掘っ立て小屋になってしまった永遠亭との抗争後、不可侵条約が結ばれていたので、永遠亭の連中がここに来ることはまずない。この事は、妹紅だけではなくてゐにとっても絶好の隠れ家となることを意味していた。
因幡てゐは小屋の裏手の壁の隙間から中に入り、地下室の入り口を塞ぐ古い布団を乗せた木箱によじ登ってそこに横になる。妹紅は冷たい地べたでも平気で寝れるが、てゐは柔らかい寝床がないと落ち着かない性分で、この毛布は妹紅の備品ではなくてゐが個人的に持ち込んだ私物である。
てゐは、自分で整えた寝床に丸くなり、そこでふぅと一つため息をつくと、すぐに眠気が襲い瞼が重くなってくる。
「・・・。」
うとうとしかけたその時だった。突然、板壁を挟んだすぐ外に何かがどさりと落ちる音がしたのである。
「!」
竹林の中に無数にいるうさぎの感覚機能を利用した高い探知索敵能力を持つてゐは、何者かの突然の接近に驚愕した。
てゐは、気配を悟られないように板張りの壁に背中を合わせ、隙間からそっと外の様子を伺う。
「(・・・ん?あれは!)」
何度か見たことがあるが、あれは間違いなくスキマ、八雲紫の固有能力であるスキマが小屋の引き戸前に現れていたのである。
「(まずい・・・。)」
てゐの背筋が凍る。八雲紫と聞いて前向きで楽しい事が起こると到底思えない。もしかしたら、妹紅との内通がばれて、吸血鬼レミリア・スカーレットの運命発動のタイミングを狂わせた事に対する報復が来たのではないかと身の危険を感じてしまう。
外が覗ける壁の隙間から離れて小屋の隅に身を隠すてゐ。そのまま外に全神経を集中して、じっと息を潜めて居留守を装う。そして、この災厄が早く過ぎ去る事を念じる。
しばらくそうしていると、外に弱々しい生き物の気配がひとつ、その場から動かずそのままそこに留まっているだけで、それ以上の変化が起こる気配が全くない。変だと思って周辺にいる一羽の野うさぎの視界を乗っ取り小屋を外から観察してみる。
「む?あれは・・・。」
そこにスキマは既に無く、八雲紫やその他危険な気配も無かったが、引き戸の前にボロボロになった見たこともない妖怪が一人倒れているのを発見した。妖怪だとすぐに分かったのは背中に羽根が生えているのが見えたからである。
妹紅が八雲紫のスキマを盗んだ事を知らないてゐは、何故あそこにスキマが開いたのか理解出来なかったが、八雲紫がこの妖怪を妹紅に託す為にここにスキマを開いたのではないかと前向きに考えてみる。しかしそれが仮に正解だとすると、この場所の正確な座標が八雲紫に知られている事を意味し、竹林にスキマが開かないという定説は覆る事になる。これは永遠亭にとって不利な状況ではないのかと頭を悩ますてゐ。
「まー考えてもしかたがないし、後で妹紅に聞けば良いのだ。」
この案件は手に余る問題だと思った身の程を知るてゐは、今しなければならないのはこの妖怪をどうにかすることである。てゐは、妹紅が関わっていると判断し、危険はないと見て入った穴から出て表に回ってその妖怪に恐る恐る近づいた。
何かと戦って盛大に負けての負傷だと直感的に分かる。そして、その相手は恐らく妹紅だろうと容易に想像が出来る。つい先日誰かさんに同じく大怪我を負わされ、その傷が完全に癒えていないてゐは、すぐにこの妖怪に共感と同情が芽生える。
ここにこの妖怪を置いていった者の意図は読める。医療所である永遠亭に治療を頼むという意味で、永遠亭前に直接スキマを開かなかったのは、八雲紫が直接永遠亭に乗り込まない様にする妹紅の意図があった為だろう。今回八雲紫と永遠亭は密約を交わし味方同士となったわけだが、それはあくまでも今回だけの事で、今後関係がどう推移するかはわからない。永遠亭と藤原妹紅が手を組み、八雲紫と対決するという構図もないとはいえないので、その点を考慮に入れた今回のスキマなのだどうとてゐは納得することにした。
レイセンや永琳は不在だが、一応その弟子を自負するてゐとしては応急処置くらいは出来るだろうと、周辺のウサギを人型に変化させ、怪我をしている妖怪を複数で担がせてそのまま永遠亭に向かった。
永遠亭の居間。
「あーあ、退屈ねー。てゐ!てゐはまだ帰ってないの!ったく・・・。」
月のお姫様、蓬莱山輝夜はペットの因幡の白兎として有名な因幡てゐを呼びつける。しかし、てゐの返事は返ってこない。でも、近くにはいそうなので何度も呼びつけてみる。
「悪かったわよ。でも、あーでもしないと皆信じなかったでしょ?実際あの写真で決定的になったようなものだし。」
異変に際し、紅魔館と永遠亭が争うシナリオが用意されていたが、そのきっかけを作る為に永遠亭と因幡てゐとの間の不仲を演出する必要があり、暴力によって因幡てゐが離反するという段取りを講じ、その時負って見せるケガを偽装ではなく本物の重症にしてしまい、その実行犯がそれを喜々として行った輝夜なのである。その件があったので、輝夜はてゐから避けられていると思い、心から詫びるつもりなど毛頭なかったが、一先ず下手に出てみる。
「どうしたら許してくれるの?と言うか何で私がおべっか遣わなきゃいけないのよ。全く!早く出てきなさいよ!出てこないともっとひどい事になるわよ!」
しかし、最後には本音が出ていまう。
主従関係にある以上、てゐは輝夜に何をされても我慢しなければならないが、てゐとしては従属はしていても隷属しているつもりはないし、同じペットであるレイセンより格上として扱われている。輝夜はともかく、八意永琳からは一目置かれているのだ。
「おーい!姫!姫!早く来て!」
その時、玄関の戸が勢いよく開く音がして、すぐに聞き慣れた因幡てゐの声が聞こえてきた。しかも、向こうからこちらの名前を呼んでいる。
姫を呼びつけるとは何事かと憤る輝夜だが、怪我をさせた手前もあり、ここはおとなしく呼ばれようと重い腰を上げる。
居間からそれなりの距離がある玄関までの長い廊下をゆっくりと向かう輝夜。何度かてゐに急かされるがその都度はいはいと応えて慌てず騒がずマイペースで歩く。
医療所の出入り口も兼ねる玄関から入ると向かって右が診療室で、正面と左側に長く廊下が伸びる。左側の廊下が外庭に面した長い縁側になっており、それに沿って何十畳もある広い複数の客間の先に普段皆が顔を会わせて過ごす居間がある。
輝夜は異変のただ中の桃色の空を時々立ち止まって目をやりながらてゐの元に向かう。いつも通りの輝夜の対応であるが、てゐは何度も何度も早く来いと叫んでいる様子から火急の用だと伺えるので、底意地悪く逆に歩みを遅らせる。
ようやく玄関にたどり着いた輝夜は、てゐが連れてきたと思われる汚らしい妖怪を見て、あからさまに面倒臭そうな顔をする。
「何これ、何でこんなもの拾ってくるのよ。」
その対応にムッとするてゐは、嫌みで返す。
「大怪我してるから、他人事と思えず連れてきたんだよ。」
レイセンとは違い、普段から輝夜と毒気を含んだ舌戦を平気でやるてゐ。
「そうきたか。」
てゐに対し若干後ろめたい気持ちがあった輝夜だが、そこは腐っても輝夜である。てゐの嫌みに更に嫌みで返す。
「で、何?自分でさすのは嫌だから私にトドメをさせっていうの?」
「ちがーう!」
プンプンと真剣に怒り出すてゐをなだめすかす様に、玄関向かって右側の許可無く入れない診療室の戸を開けやる察しの良い輝夜。彼女はぐうたらではあるが、決して愚鈍ではない。
戸を開けてもらったてゐはすぐに態度を代え、礼を言って僕の人型ウサギをつかって、見知らぬ妖怪を診療室のベッドに運び入れた。用事の済んだうさぎ達は元の姿にもどると診療所からわらわら走って出て行った。ただの野うさぎと違って彼等はて下僕として与えられた持ち場があるのである。
「どうするのそれ?身元不明の妖怪を勝手にベッドなんかに運んで、後で永琳に怒られても知らないわよ。」
「妹紅の家の近くに落ちてた。後々のことを考えると助けておいたほうがいいと思う。たぶん・・・。」
妹紅の名を聞いて不機嫌だった顔が更に不機嫌になる輝夜。舌打ちしてそのまま診療室から出ようとする。
永遠亭は今回の異変に関して藤原妹紅に全面協力すると決めた。輝夜としても妹紅に対する個人的な恨み辛みは一旦置いて協力しなければならない立場にある。しかし、積極的に協力する気など更々無い輝夜としては、この件にこれ以上関わりたくないので早々に退散を決める。
てゐは輝夜が去ろうとしている気配を背後で感じながら、応急手当をしようと教えられた通りに外傷箇所やその数の視診に入る。
目に見えてわかる大きな外傷が右腕で、肘のすぐ下から欠損してしまっている。問題は肉体が切断されているのではなく、明らかにその部分が人工的に作られた痕跡があり、その部分が機械的に破損しているということである。
体の複数箇所から出血した痕があるが、その腕の欠損によって出血した痕跡はない。肉体と機械の境界となる肘の下のつなぎ目部分に目立った大きな破損はなく、修理すれば直せそうである。しかし、それは医術の領分ではなく科学の領域で、てゐにどうこう出来るものではなかった。
高度な技術を持つ永遠亭という組織の中にいる所為か、機械的なものに対して免疫があるてゐは、この一部機械化された妖怪を見ても比較的冷静でいられた。しかも、機械といっても師匠である八意永琳の作るものとは比べものにならないほど稚拙なもので、あり合わせの材料と低い技術レベルによって作られたのだろうと容易に想像出来る為、尚更危機感を感じない。
「・・・む?」
しばらく、この改造妖怪に集中していたてゐだが、ふと、先程診療室を出ようとした輝夜が同じ場所に留まって動いていない事に気付いて変だと思い、作業を中断して振り向いた。そして、一部機械化された妖怪に対して驚きもしなかったてゐがそこで大いに驚いた。
「・・・何か用?異変が終わるまではそれぞれの時間軸を維持してないとだめでしょう?」
輝夜が診療所の入り口の向こうにいる何者かに問いかけているのをてゐは見た。そして、その相手とは複数名の蓬莱山輝夜の姿だったのである。
輝夜が複数の時間軸を形成し、平行世界毎にそれぞれ独立した複数の輝夜が存在していることを知っているてゐだが、診療室の開いた戸の向こうに夥しい数の蓬莱山輝夜を直接見るのは初めてで、頭で分かっていても実際にそれを見てしまうと面食らう。長く生きた妖怪は、危機的状況にも動じなくなるものだが、妖怪最長命の一人である因幡てゐもこれには流石に驚きを隠せなかった。
「・・・。」
輝夜の質問に即答しなかった他の輝夜達は、次の瞬間一つに糾合し、ここにいる輝夜は2人だけになった。
「ちょっ!これは、どういうこと?」
てゐは2人のやりとりを見ながら自分に背を向けている輝夜の衣服の裾を鷲掴みにする。そうしないと、自分の知っている自分達の姫個人を認識出来なくなってしまうと思ったからである。
「貴女も薄々気付いているでしょう?」
「何が?」
「貴女の受け持つこの世界は、特異的に分岐した超レアケースだってことを・・・よ。」
たくさんの輝夜が集合して一人になった代表者的な輝夜がてゐの存在を無視するように説明する。取るに足らない者としての無視というより、敢えてこの会話を傍聴させているともとれる。
無数に枝分かれした世界は、流動的な歴史の流れが落ち着いた段階で一つに集束してそれぞれの情報を統合し、その中の最良の結果を生み出した時間軸を本軸として選定し、それを起点に情報を並列化して再度分岐する。今、無数の輝夜が一つになったのは情報の統合が行われた事を意味し、てゐが掴んでいる輝夜だけがその情報の統合から漏れたわけである。
一人仲間外れにするということは、統合された情報からの隔離を意味し、だからこそてゐが掴んでいるこの世界の輝夜は怒って説明を求めたわけである。
「・・・なるほどね。この世界を隔離するのね。」
「貴女の永琳は完全にパラダイムシフトを起こしているわ。本来の姿に戻ったとしても、それは私達にとってそれは何ら役にならない。更に、これは恐らく彼女一人だけの問題では済まないはず。その影響は恐らく貴女にもこの世界にも及ぶわ。そんな異物を含んだまま貴女と情報を統合するのは危険よ。重大なバグとしてこのシステムを大きく狂わし、世界を変えてしまう可能性があるわ。それが如何に危険で許し難い事であるかは当然貴女にも理解出来るでしょう?」
ここで言う世界とは月の世界を中心にした世界の事であり、地上の世界にとって有益でも、月の世界に不利益となればそれは排除しなければならない案件だった。
「・・・それが蓬莱山輝夜の意思というのなら、従うのが蓬莱山輝夜としての使命ね。」
「流石私。話が早くて助かるわ。」
「まさか私がハズレを引くとは思ってもみなかったわ。」
「皆そうよ。自分のいる時間こそが最も優れていると思っているわ。まー『責任』から解放され、本当の自由を得られると前向きに考える事ね。これまでも、これからも、平行世界の袋小路は生まれ続けるわけだし。それに・・・。」
「最後になってこの世界こそが『アタリ』だった・・・ってこともあるかもしれないしね。」
「ふふ、そういうこと。では、ご機嫌よう。特別な永琳をよろしくね。」
そう言って、てゐがついていない方の蓬莱山輝夜は、ここで初めててゐに一瞥いれて診療所の扉から姿を消した。
「ひ、姫・・・様?」
「ふふ、これで、正真正銘の無職(ニート)ね。」
「それは、姫にとって良いことなの?」
横から話を聞くだけだと自分達の姫が仲間外れにされた様に見えるが、彼女達にしてみれば当然の合意として至極当たり前の事をしていただけにも見える。事情を中途半端に知っているせいで、これをどう判断していいのかてゐにもはっきりしない。レイセンならきっと、こっちの輝夜に同情し、あっちの輝夜にケチをつけるという単純な勘違いを犯して、かばった当人に逆にこっぴどく怒られていたことだろう。
「私達は世界を滅ぼさない様にするのが仕事。こうやって今までもイレギュラーを排除してきたのよ。これまでも、これからも。というか、何で泣いてるの?てゐ。」
「だって、なんか姫が仲間外れにされたみたいで・・・。」
一連のやりとりを見たてゐは、地上民の感覚で捉え輝夜にひどく同情していたのである。一方で月の御姫様にはそういった感情や感覚が理解できなった。やはり、別の世界の者同士なのである。
「あいつらの世界から隔離されたとしても、私自身の能力が消えるわけではないわ。逆に言えばこの私を起点にここから新しい世界と歴史の本筋が始まろうとしているのよ。ただ、あの永琳を基準にするという点で、あいつらとは全く違ったベクトルを持った世界が進み出しそうだけどね。」
「・・・そ、それは、喜んでもいいの?」
「ええ、これはある意味おめでたいことよ。公務から解放されて、晴れて完全無欠の無職になったんだから!」
ぱーっと表情が明るくなる輝夜とは裏腹に、複雑な表情になる因幡てゐ。
「・・・。」
てゐは、本当に嬉しそうにしている輝夜を見て、それが演技なのか本心なのか判断できなかった。人間なら相手に心配させないように強がって見せる下手な演技をしてみせるが、変化した永琳ならともかく目の前にいる宇宙人にはそんな殊勝な振る舞いなどできるはずもない。しかし、あの永琳を直に感じた今の輝夜なら或いは・・・と期待してしまう。
内心穏やかでは居られず、心の中では泣いているのかもしれないと、てゐは前向きに考える事にした。そして、今の輝夜なら苦戦を強いられているだろう永琳とレイセンの援軍として永遠亭から連れ出せるかもしれない・・・。
てゐは、あの妖怪と自分の怪我は一先ず置き、妹紅の異変を成功させる為、今少し働こうと決意した。
永遠亭に於いて重大な分岐が起きていた頃、時を同じくしてこの世とは違う別の場所で一人の少女が孤独と戦っていた。
ここは、あの世の一歩手前の『選択の間』である。
「畜生!何でだよ!」
白と黒と金色の少女が1人、思い通りにならない現状を罵りながら四つん這いになって床面を叩いている姿が遠くに見える。
藤原妹紅は火の鳥の傍を離れて、霧雨魔理沙のいる方へ向かって歩いていた。
気付かれない様に気配を消して忍び寄ったつもりはなかったが、そのすぐ後ろに立っても未だに魔理沙は妹紅の存在に気付く様子もない。ここに自分以外の何者も存在しないことは既に承知しているのだろう。だから、周囲に気を配るのは止めて床面に開いた穴にだけ意識を向けているのだ。気付かなくても仕方がないが、魔法使いの端くれなら、この状況にも冷静で、或いは興味を持って臨んで欲しいと、先程別れたばかりの魔理沙の母、サーヤとの歴然とした差を感じる妹紅。
「(しかし・・・)」
彼女が自分の意志とは裏腹にここに強制的に導かれた経緯を考えれば、過大な期待は酷というものだろう。少なくとも魔理沙は床面に開いた穴の向こう側で起こっている状況を、夢物語などではなく現在進行形で進んでいる現実だと捉えているだけで上出来と言えるだろう。どうにもならない自分に憤りを覚えているのは、現状を何とかしたいという気持ちの表れであり、普通の人はこの状況を見て自身の肉体を諦めて早々に黄泉路を辿る決断をするはずである。
そして、その決断を自発的に行い此岸に未練を残さず、死を円滑に行う様にするのが『選択の間』の役目なのである。
「・・・魔理沙。」
そんな魔理沙に妹紅は驚かせない様にそっと声をかけた。それを受けて身を強張らせた魔理沙は一寸キョロキョロするものの空耳だと判断したのか元の格好に戻り、先程と同じ動作を始める。
やれやれという仕草をした妹紅は、今度は大声で呼びかけた。
「おい!霧雨魔理沙!」
「おわっ!」
誰も居ないと決めつけ、先程の呼びかけも空耳と思い込んでいた魔理沙は、不意打ちを喰らって口から心臓が飛び出しそうな勢いで、文字通り飛び上がって驚き、その場に尻餅を突いて大の字に倒れた。
仰向けで真上を向いていた魔理沙は視線をやや頭の方に向けた。すると見覚えのある小柄なのにやたら表面積が広いシルエットが視界に逆さまに飛び込んで、更に驚いて立ち上がる。
「も、妹紅?」
「よう!」
妹紅は通りすがりの知人に気さくに声をかけるように右手を上げて、笑いを押し殺したぎこちない笑顔で挨拶する。
魔理沙は一瞬状況が掴めず頭を抱えて考えるポーズをしたまま固まってしまったが、順を追って頭の中を整理し、見知らぬ場所でのこの奇跡の様な再会が予め予定されていた必然であることを理解すると心の底から安堵し、肩の力が抜けて大きくため息がもれた。
この時の魔理沙は既に過去の封印されていた記憶を取り戻し、魅魔も含めて妹紅が全てを掌握して、この状況に自分を追いやった事を理解しており、つい先刻までそれを忘れていたが、今ようやく思い出したのだ。
魔理沙は安心して、自分より背の低い妹紅の両肩に手を乗せたままヘナヘナと腰砕けになってペタっと腰を落とした。
「どうした魔理沙?」
「いや、妹紅の顔を見たら、なんか安心して・・・。」
「安心するのはまだ早いんじゃない?」
「え?助けに来てくれたんじゃないのか?」
「ここは、『選択の間』と言って、生きるか死ぬかの選択をする場所よ。でも、一度死んだ人間はそう簡単に生き返れるものではないわ。」
「そ、そうなのか・・・。」
ほっと一安心した魔理沙の表情にまた陰りが出る。
「まず、本人が生きたいと望むかだけど。」
「そ、それなら私は!」
「落ち着いて魔理沙。」
妹紅は大人が若輩を諭す様に、指で床面を指しちゃんと座れと指図し、素直に従う魔理沙を見て、自らもそこにあぐらをかいた。
魔理沙はだらしなく落としていた腰を上げてその場にしゃんと正座している。霊夢やアリスに対する態度とは明らかに違う、目上に対する態度になっている。いい傾向といえる。
妹紅はこの現状に満足して、自分が今すべきことを行った。
「まずは、先に謝らせてほしい。」
「ちょ、待ってくれ私は別に・・・。」
頭を下げようとする妹紅を慌てて止めようとする魔理沙。
「魔理沙を殺してここに追いやったのは他でもない、私だ。」
傾きかけた頭を一度上げて相手の目を見て真剣な眼差しを向ける妹紅。
「うん、それは分かってる。魅魔様と連んで・・・でもそれは私にとっても魅魔様にとっても必要な事で・・・。」
「だからと言って殺した事実にかわりはないし、殺しを正当化する理由にしてはならない。」
妹紅はそう言って魔理沙に深々と頭を下げ、救済を目的としたとは言え、殺した事実に対し誠心誠意謝罪をする。
「頭を上げてくれ妹紅。元はといえば私が・・・私の所為なんだ。」
魔理沙はそこまで言って押し黙った。妹紅は魔理沙の雰囲気が変わったのを受けて頭を上げた。
「・・・魔理沙・・・。」
膝の上に置いた手を堅く握って肩を震わせうつむいている。後悔の念に苛まれているのだろうと容易に想像出来る。身から出た錆とはいえ、15に満たない少女が背負うには大き過ぎる過ちだった。
10歳にも満たない頃、霊夢が輿入れする神社に先回りした魔法少女魔理沙は、そこを管理していた大魔導師魅魔と運命的な出会いをする。その時、魅魔が追い払おうとして使った魔法に魅せられた魔理沙は、霊夢の輿入れを妨害するという当初の目的を忘れ、魅魔にしつこく師事を乞い正式に弟子として認められ、当時ホウキに乗って飛ぶくらいしか出来なかった魔理沙は魅魔の元で急成長した。しかし、急激に力をつけたことで増長してしまい、力に魅せられた危険な魔法使いになってしまう。
自分を甘やかす師匠を軽んじるようになった魔理沙は粗暴になり、実家に戻っても我が物顔に振る舞い父親と衝突。そしてとうとう勘当されてしまう。更に魅魔とも仲違いして、独り無謀な挑戦を繰り返すようになり、遂に近づくことを禁じられていた西洋墓地で英霊達を辱め逆襲に遭って命を落としてしまう。
この当時既に他界し娘の魔理沙の守護霊となっていたサーヤは、娘を殺した吸血鬼の英霊と賭をして魔理沙の死を保留させた。そこに火急を聞きつけた魅魔が駆けつけ死霊術をアレンジした転生術で魔理沙の肉体と魂を強制的に結びつけ条件付き蘇生に成功したのである。
しかし、死霊術によって復活した魔理沙は、魅魔の虜となって忠実に動く下僕となってしまい、生前の魔理沙ではなくなってしまったのである。
試行錯誤の末、魅魔が自ら魔理沙の肉体と魂を繋ぎとめる鎖となることを決意し、当時八雲紫不在の幻想郷の管理を任されていた魅魔は、復帰のタイミングを見計らって、下僕の魔理沙らを率いて封魔異変を起こし、博麗神社の巫女霊夢と戦って敗れ、死を偽装して魔理沙の中に隠れたのである。
霊夢と一戦交え敗れた魔理沙は、魅魔と引き替えに限りなく完全に近い不完全な復活を遂げた。そして、ネガティブな記憶を改竄された魔理沙は当たり前の様に霊夢の元に戻ったのである。
八雲紫をも凌ぎ、その抑止力とも言えた幻想郷の大賢者魅魔の変心と死は当時の幻想郷に大きな衝撃を与えたが、それ以上に脅威となったのは、若干10歳にして悪霊大魔導師を倒した博麗神社の巫女、霊夢の存在だった。
時の人となった博麗霊夢は、妖怪退治を生業とする巫女、正確には陰陽師として名声を上げ今に至っており、その周囲には常に白と黒の魔法使いを見るようになる。
魅魔は八雲紫が幻想郷に復帰するまで博麗神社と幻想郷の管理を任されており、霊夢が10歳になり神社に輿入れすれば、親代わりとなって霊夢の面倒を見るはずであった。しかし、その直前に魔理沙が魅魔の前に現れた事で全ての歯車が狂ってしまったのである。
その当時、霊夢の輿入れは上白沢慧音と妖酔直属の部下らの警護の下に行われたが、この時神社に魅魔は居なかったのである。慧音としては決して霊夢を置き去りにしたわけではなかったが、魔理沙の事件は全く知らず、大賢者がたまたま留守だったと思い込んで、特に形となって残さなければならない様な手続きもなかったのでそのまま霊夢を独り神社に置いてきてしまったのである。この事は慧音も後悔しており、その後何かと霊夢を気に掛けるが、霊夢はその当時の事をよく覚えていない。これは忘れたというより、思い出さない様にしていると捉えるべきだろう。
誰も居ない神社で独り寂しく数日過ごした10歳の霊夢は、後見人となる大賢者魅魔とようやく会う事が出来たが、出会った時から敵対的で、間もなく謀反が起こり封魔異変が勃発。霊夢はそこで変わり果てた幼馴染みと再会する。
家族にも等しい親友と謀反の首謀者魅魔を倒してしまった10歳の少女は心に大きな傷を負い、最後は結局独りになるなら誰とも関わらない交わらないという無常観に苛まれ、この歳にして悪い方に達観し世捨て人の様に外界と距離をとって生きる様になってしまったのである。
神様と人間の間を取り持つ神社の役目を霊夢が果たさなくなったことは、今回の異変にも間接的に影響していることは事実で、久々に誕生した巫女である霊夢の存在は、幻想郷においてとても重要な事だっただけに、この霊夢の悪い方への成長は、八雲紫などにとっても大誤算といえた。
同じ日に生まれ、同じ乳を飲んで育った2人の少女の運命の狂いは、幻想郷にとって大変な不幸だったのである。
正座したまま顔を強張らせ、後悔の念に押し潰されそうになっている魔理沙。
どんなに悔やんでも悔やみきれない。あの時ああしていればと思い当たる節が多すぎて後悔しか出てこない。霊夢と離れたくないという一心で、神社までたどり着いたのに、魅魔の魔法を見た瞬間その思いもどこかに吹き飛んで、霊夢の事が二の次になってしまった。薄情で身勝手で我が儘で無能だと自分を罵る。
そんな魔理沙を見て妹紅は立ち上がって、帽子のない金色の頭に優しく手を乗せ、ゆっくりと撫でた。
「なってしまったものはどうしようもない。私も何度も失敗して、その都度後悔ばかりだった・・・。」
妹紅は魔理沙を慰めると同時に自身の罪を省みる。死んで詫びる事も出来ず、ずっと自分を責めてきた。今の死んだ魔理沙を見るにつけ、死んでからも後悔するのだから、死んで詫びるなど単なる責任逃れなのだろうと、昔の自分の未熟さを思い返す。
「・・・妹紅。」
「ん?」
悔やみに悔やんで悔やみ抜いた魔理沙は暫くして意を決し顔を上げた。
「どうすればいい?どうすれば向こうに戻れる?」
魔理沙は方法はわからないが妹紅なら戻せる、向こうの世界へ帰れるという確信を持ちながら迫り、一刻も早くここから抜けだし、幻想郷に戻って蘇生の為に懸命に働いている知人達の元に帰りたいという気持ちを妹紅にぶつけた。
縁者として魔理沙の元に現れた妹紅にとって、魔理沙を帰す事はとても簡単な事だった。背中を押してその穴に魔理沙を落とせばいいのである。
この穴は、現世をのぞき見る為の窓ではなく、そこへ戻る通路の入り口である。しかし、自力でこの穴を抜ける事はできず、必ず他者の協力を得なければならない。その他者の存在を生前得られるか得られないかが、『選択の間』における生死の分かれ目なのである。
妹紅はその他者となる権利を得る為に、魔理沙を目にかけ、知識を与え、大切な道具も授けてきたのである。そして図らずも、魔理沙の母親の恩人となった事でその資格を十二分に得たのだ。
「・・・。」
懇願の眼差しですがるように妹紅を見上げる魔理沙。妹紅としては意地悪をする気など全くなかったが、今が魔理沙更正の絶好の機会とみて、直ぐに願望を叶える事はせず首を振って待ったをかけた。
「魔理沙、もし、お前が真っ当に生きてここに来てしまったのなら、ここには恐らくお前の母親や霧雨家のご先祖が現れているはずだ。」
妹紅は男口調になって厳しく諭し始める。
「お、お母さん?」
魔理沙は父親を「オヤジ」と呼ぶが、亡き母に対しては敬意と親しみを込めて「おかあさん」と呼ぶ。
「ここは肉親や親戚縁者、生前、特別な関係にあった生き物、大事にされて命を受けた付喪神しか来れない場所なんだ。」
それを聞いて魔理沙は、当たりをキョロキョロした。もしかしたら母親が居るかもしれないと思ったからである。
「何故ここにお前の母親ではなく私がいるのか、わかるか?」
「分からない・・・あ・・・いや・・・分かってる。」
魔理沙は咄嗟に分からないと言ってしまったが、直ぐに訂正した。
「お前が無謀な戦いを挑んで返り討ちにした連中に、お前の守護霊だった母が頼み込んで完全な死を保留してもらっていたんだ。その代償としてお前の母親はそいつらに魂を差し出してしまったんだ。お前の母親は既に跡形もない。」
最後の言葉は嘘だった。吸血鬼始祖の英霊達に認められた妹紅への報償代わりに魔理沙の母親は解放されて、先程まで一緒にいたのである。しかし、本来ならこのような幸運には恵まれず、一般論として妹紅の言葉は正しいといえた。
魔理沙は自分の失態で母親の守護霊が吸血鬼の英霊に囚われた事を朧気ながら覚えており、妹紅に言われて完全に思い出したのである。その後魅魔が来たのまでは覚えているが、死霊術を施されて『別人』になってからの記憶はない。
「おかしいと思わないか?」
母親まで殺してしまったと後悔の念が再びもたげてくる魔理沙に追い打ちをかけるように突然妹紅が疑問を投げかけるが、魔理沙にはその問いについて、何がおかしいのかが咄嗟に理解出来なかった。
自分の身代わりとなって母の魂が消滅したのは事実で受け入れがたい事ではあるが、それについては真実で何もおかしなところはない。
無理はなかった。死や死後の事など知識に明るい者ならすぐに気付くが、魔理沙はそれに関しては全くの無知だったからだ。
「おかしい?何が?」
魔理沙も不思議に思い戸惑いの表情を見せる。妹紅の顔が先程までと違って恐ろしくなっているのもあって不安が増幅する。何か重大な事を見逃しているのだろうか?
これは妹紅の演出でもあったが、ここからが大事なところなので強く印象づける必要があったのでわざわざ謎めいた言い方をしたのであった。
「お前は当時、父親から勘当され霧雨家の戸籍から離れている。今のお前は霧雨を名乗っているが、実家とは縁が切れ親戚縁者が誰も居ない孤独な存在だ。しかしあの時、お前が死んだ時、霧雨家の人間であるお前の母親の霊はお前の守護霊としてそこに居た。」
「!?」
魔理沙は嫌な予感と共に鳥肌がたった。
「お前の母親は、霧雨家の当主であるお前の父親の正式な妻として戸籍に入り鬼籍に着いた。霧雨家の人間として代々の墓に入っているはずだ。つまり、実の母子である事実にはかわりはないが、霧雨家を追放されたお前とは家系的には赤の他人と同じ状況になっていたんだ。」
「でも、それならなぜ?」
「お前にとって憎たらしい親父だろうが、彼はお前を勘当した後、愛娘がご先祖の加護を受けられない事を不憫に思い、妻の遺骨を墓から出して、霧雨家からお前と同じ様に追放し、霧雨家との縁を切るかわりに母子の縁を回復させ、お前の守護霊となれるように便宜を図ったんだ。つまり、お前の父親は母親と離婚したってことだ。」
これは先日森近霖之助から聞き出した真実である。
「んっ、な!」
「手の付けられない程、別人のように荒んだお前を見て、家や里に迷惑がかかるとの苦渋の決断だったことだろうよ。」
魔理沙は、吐き捨てるように言い放つ鬼の剣幕になっている妹紅の顔を直視出来ずにがっくりとその場に手をついてうなだれた。
自力で魔法を習得し、幼い頃から一端の口を利いて、父親に魔法使いとして認めさせようと必死だった魔理沙。魅魔から魔法を学び力を得て増長した幼い魔法使いは、真っ先に父親にその力を見せた。しかし、返ってきたのは鉄拳制裁で、当時の心も身体も未熟な魔理沙は、その愛の鞭の意味も理解出来ず反抗して余計に力に傾注していった。
何度も衝突し、その度に周囲に迷惑をかけ、それを反省しない人間性を失いかけた娘の変貌ぶりに父は遂に匙を投げ、勘当を申し渡したのである。
「子供を愛さない親はいない。この父親の身を切る正しい判断がなかったら、お前の母親はお前の守護霊になれず、魔理沙はあのまま死んでしまったんだ。そうなれば大切なものを失った悪霊がその後どうなったかはお前にも想像できるだろう。かもすれば幻想郷は滅んでいたかもしれないんだ。」
重い鈍器で後頭部を思い切り殴られ、そのまま押さえ込まれた様に魔理沙の頭は漆黒の床面に張り付いて離れなかった。
父親の事はこれまであまり気にしていなかった。勘当といっても家出したようなもので、そのうち帰れるだろうと気楽に思っていた。勘当された当時は父親を憎悪していたが、今となってはどうでもよく感じていた。しかし、思いの外事は重大で、あれだけ愚弄した父親が自分を守る為に身を切っていたことを聞かされ、父の偉大さと更なる後悔の念が膨れあがっていた。
「どこまで私はバカなんだ・・・。」
魔理沙はその場で頭を大きく上げて床面に打ち付けた。しかし、全く痛くなかった。
「ここでは肉体は存在しない。ここでの自傷行為は意味がない。」
妹紅は冷たく言い放つ。苦しみを痛みに代えて誤魔化す事はここでは出来ないのである。
「起こってしまった事をここで後悔してもしようがない。反省の仕草だけなら妖精にも出来る。」
「じゃー私はどうすれば?」
悲しいのに涙が出ない悲痛な表情の魔理沙が妹紅に追いすがる。
「人間になれ魔理沙。生き物としての人間ではなく、歴史を持った正真正銘の人間にだ。」
「にんげん?」
「父親に謝罪し、母子共々霧雨家に戻してもらうんだ。お前はともかく、形式だけでもそうしてやらないと、母親は浮かばれないし、父親の心の痛みも消えないだろう?」
それを聞いて魔理沙ははっとなった。そして、出なかった涙が溢れてきた。
「形式上ではなく、本当の復縁はそう簡単なものではない。何年かかってもいいから、お前が生きている間に絶対に霧雨家と復縁するんだ。約束するならお前を向こうに帰してやる。」
泣きじゃくる魔理沙は、返事が上手く出来ずうんうんと何度も頷いて、妹紅との約束を誓う。
妹紅はここでの出来事は向こうに帰ってしまえば全て綺麗さっぱり忘れてしまうことを知っていた。しかし、今ここで起こった事を心の痛みとして魂に刻み込んでおけば、無意識にそう動くはずである。絶対ではないが、妹紅は魔理沙を信じた。必ず今言った事を実行してくれると。
そして妹紅はそうなる為に魔理沙の魂に一つの刻印を植え付けようとする。
「魔理沙、一つ賭をするか。」
「え?か、賭?」
思いがけない妹紅の申し出に戸惑う魔理沙。その表情が先程と違って砕けていたので少し安心する。
「前々から考えていたんだ。せっかく『選択の間』に来れたんだからしばらく休もうってね。」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
「なぁに、お前がすぐに復縁すればいいだけの話さ。そうだな、復縁に10年以上かかる方に私は賭けよう。お前は10年以内に復縁出来る方に賭けろ。」
「何だよそれ!わけわかんねーよ!だいたい賭けって言うけど、何を賭ければいいんだよ!」
「そんなのお前の未来に決まってるだろ。私が勝てば少なくとも10年分休める。そして、お前は10年以上悶々と過ごす事になる。口で言うのは容易いが定命の人間が10年分無為に過ごすのは大きいぞ。でも、お前が直ぐに復縁できれば、それだけ沢山の明るい未来が待っているし、私は休む間もなく直ぐに幻想郷に復帰してしまいサボれない。」
記憶とは一見すると人が触れる事の出来ない無形の存在に感じるが、脳の記憶を司る部位に直接書き込まれる物理的な現象である。だからこそ、記憶を改竄したりすげ替えたり消したりも出来る。精神と魂だけのこの世界で経験したことは、それを書き留める物理的な媒体が存在しないので、無かった事にされる。しかし、強く印象に残った想い出は魂に刻むことが出来る。この魂の記憶は都合良く忘れたり思い出したりは出来ず、人生に於いて行動や思考に絶えず干渉し、時には危険を回避する一瞬の判断や、正しい答えを導き出す第六感となるのである。
輪廻を巡る間に沢山の経験を積んだ高い位の魂を持って生まれた者は、様々な場面で魂の記憶に突き動かされ無意識に正しい選択をして大成していくのである。
全てを忘れてしまうだろう魔理沙だが、ここで賭をした経験は魂に刻まれ、異変終結後も幻想郷に復帰してこない妹紅を疑問に思い日々悶々と過ごすことだろう。そして無意識に自身の魂に問いかけ、問題の解決を探ろうと突き動かされるのだ。
「そんなの私が勝つに決まってるじゃん!」
賭け事が嫌いではない魔理沙は直ぐにのってくる。
「言ったな。ならば賭けに乗ると宣言しろ。」
「分かった。その賭け乗った!直ぐに妹紅を幻想郷に復帰させてサボらせないからな!」
魔理沙は元気を取り戻し、いつもの様にニヤリと笑ってみせる。妹紅はそれを見て安心し肩の荷が下りた心境になり、帰り支度をするために床面の穴に移動する。状況が次の段階に移行したと察知した魔理沙もそれに倣う。
先程魔理沙に声を掛ける時、こっそり穴を覗いて見た時は、魔理沙蘇生現場に焦燥感が表れていたものの蘇生活動は懸命に続けられている最中だった。そこから更に時間が経って、どのように変化したのか興味がある。
まるで他人事の様だが、永遠亭が率先して蘇生活動を進めているのを確認した後だったので妹紅には妙な安心感があった。
妹紅は、具体的に何をどうしろと頼んだわけではなかったが、メッセージを正しく受信してそれを忠実に実行しているレイセンを見て満足そうに頷く。しかし、現場では色々な意味での限界が来ている様で、特に肉体的な疲労に伴うモチベーションの低下が深刻になっていた。
「・・・まずいな・・・ん?」
そろそろ魔理沙の中身を返してやらないと手遅れになる時間帯だったが、ここで思わぬ来訪者を目にする。これは妹紅にとって全くの想定外、青天の霹靂だった。
「(おいおい、マジかよ!)」
「あれって、月のお姫様だよな?」
魔理沙もその意外な顔に驚きと戸惑いを覚える。
妹紅は、この期に及んで妨害工作はないだろうと思ったが、危険な気配を感じ魔理沙の腕を掴んでいつでも帰れる準備をして様子を伺った。
全てが妹紅の思い通りに進む異変におけるこの意外な来訪者の登場は、今後の展開を占う意味で重大な分岐点といえた。
幻想郷東部を中心に多くの人妖を巻き込んで大規模な戦争へと発展した今回の異変。
結果的に藤原妹紅の想定した通りの結末で異変は解決されるわけであるが、現段階ではまだ異変の真っ最中にあり、山場を越えた兆しは見えたものの、最終的な結果がどの様な状態になるか分からない未確定要素の多い不安定な状況だった。
「妹紅は今頃あの光の向こうか・・・無事に戻ってこれればよいがのー・・・。」
高い知名度を利用して、密かに異変の首謀者側に与して暗躍した永遠亭の妖兎因幡てゐは、その役目を終えて、桃色に染まった幻想郷の空を眺めながら、こっそりと迷いの竹林に戻り偽装の為とはいえひどい怪我を負った身体の回復に務めようとしていた。
我が家とも言える永遠亭に直接戻らなかったのは、怪我を負わせた張本人の蓬莱山輝夜が一人留守番をしているからで、レイセンと永琳が居ない以上、暇を持て余すこの御姫様の面倒を見させられるのは明らかで、今は兎にも角にも身体を休めたかったてゐとしては、永遠亭に戻る選択肢は無かったわけである。
深手を負わされ危うく祟り神になりかけたが、その苦労の甲斐あってか誰も偽装を見抜ける者はなく、永遠亭との不仲を信じ込ませる事に成功した。結果オーライだったので、怪我の件は水に流す器の大きいてゐである。
「妹紅、ちと隠れ家を借りるぞい。」
昔はそれなりに立派な佇まいの家だったが、度重なる永遠亭との抗争に巻き込まれ、今では見るも無惨な廃材の掘っ立て小屋に成り下がってしまった妹紅の隠れ家。事情を知らない者がこれを見れば、ただのゴミの山に見えるだろう。
人が住むにその役をなしていない小屋ではあるが、この地下に向こうの世界から持ち込んだ妖術使いの数々のお宝が保管されている重要施設で、てゐは妹紅に頼まれてそれらのお宝を守っており、唯一ここへ入る事を許されていたのである。この家が掘っ立て小屋になってしまった永遠亭との抗争後、不可侵条約が結ばれていたので、永遠亭の連中がここに来ることはまずない。この事は、妹紅だけではなくてゐにとっても絶好の隠れ家となることを意味していた。
因幡てゐは小屋の裏手の壁の隙間から中に入り、地下室の入り口を塞ぐ古い布団を乗せた木箱によじ登ってそこに横になる。妹紅は冷たい地べたでも平気で寝れるが、てゐは柔らかい寝床がないと落ち着かない性分で、この毛布は妹紅の備品ではなくてゐが個人的に持ち込んだ私物である。
てゐは、自分で整えた寝床に丸くなり、そこでふぅと一つため息をつくと、すぐに眠気が襲い瞼が重くなってくる。
「・・・。」
うとうとしかけたその時だった。突然、板壁を挟んだすぐ外に何かがどさりと落ちる音がしたのである。
「!」
竹林の中に無数にいるうさぎの感覚機能を利用した高い探知索敵能力を持つてゐは、何者かの突然の接近に驚愕した。
てゐは、気配を悟られないように板張りの壁に背中を合わせ、隙間からそっと外の様子を伺う。
「(・・・ん?あれは!)」
何度か見たことがあるが、あれは間違いなくスキマ、八雲紫の固有能力であるスキマが小屋の引き戸前に現れていたのである。
「(まずい・・・。)」
てゐの背筋が凍る。八雲紫と聞いて前向きで楽しい事が起こると到底思えない。もしかしたら、妹紅との内通がばれて、吸血鬼レミリア・スカーレットの運命発動のタイミングを狂わせた事に対する報復が来たのではないかと身の危険を感じてしまう。
外が覗ける壁の隙間から離れて小屋の隅に身を隠すてゐ。そのまま外に全神経を集中して、じっと息を潜めて居留守を装う。そして、この災厄が早く過ぎ去る事を念じる。
しばらくそうしていると、外に弱々しい生き物の気配がひとつ、その場から動かずそのままそこに留まっているだけで、それ以上の変化が起こる気配が全くない。変だと思って周辺にいる一羽の野うさぎの視界を乗っ取り小屋を外から観察してみる。
「む?あれは・・・。」
そこにスキマは既に無く、八雲紫やその他危険な気配も無かったが、引き戸の前にボロボロになった見たこともない妖怪が一人倒れているのを発見した。妖怪だとすぐに分かったのは背中に羽根が生えているのが見えたからである。
妹紅が八雲紫のスキマを盗んだ事を知らないてゐは、何故あそこにスキマが開いたのか理解出来なかったが、八雲紫がこの妖怪を妹紅に託す為にここにスキマを開いたのではないかと前向きに考えてみる。しかしそれが仮に正解だとすると、この場所の正確な座標が八雲紫に知られている事を意味し、竹林にスキマが開かないという定説は覆る事になる。これは永遠亭にとって不利な状況ではないのかと頭を悩ますてゐ。
「まー考えてもしかたがないし、後で妹紅に聞けば良いのだ。」
この案件は手に余る問題だと思った身の程を知るてゐは、今しなければならないのはこの妖怪をどうにかすることである。てゐは、妹紅が関わっていると判断し、危険はないと見て入った穴から出て表に回ってその妖怪に恐る恐る近づいた。
何かと戦って盛大に負けての負傷だと直感的に分かる。そして、その相手は恐らく妹紅だろうと容易に想像が出来る。つい先日誰かさんに同じく大怪我を負わされ、その傷が完全に癒えていないてゐは、すぐにこの妖怪に共感と同情が芽生える。
ここにこの妖怪を置いていった者の意図は読める。医療所である永遠亭に治療を頼むという意味で、永遠亭前に直接スキマを開かなかったのは、八雲紫が直接永遠亭に乗り込まない様にする妹紅の意図があった為だろう。今回八雲紫と永遠亭は密約を交わし味方同士となったわけだが、それはあくまでも今回だけの事で、今後関係がどう推移するかはわからない。永遠亭と藤原妹紅が手を組み、八雲紫と対決するという構図もないとはいえないので、その点を考慮に入れた今回のスキマなのだどうとてゐは納得することにした。
レイセンや永琳は不在だが、一応その弟子を自負するてゐとしては応急処置くらいは出来るだろうと、周辺のウサギを人型に変化させ、怪我をしている妖怪を複数で担がせてそのまま永遠亭に向かった。
永遠亭の居間。
「あーあ、退屈ねー。てゐ!てゐはまだ帰ってないの!ったく・・・。」
月のお姫様、蓬莱山輝夜はペットの因幡の白兎として有名な因幡てゐを呼びつける。しかし、てゐの返事は返ってこない。でも、近くにはいそうなので何度も呼びつけてみる。
「悪かったわよ。でも、あーでもしないと皆信じなかったでしょ?実際あの写真で決定的になったようなものだし。」
異変に際し、紅魔館と永遠亭が争うシナリオが用意されていたが、そのきっかけを作る為に永遠亭と因幡てゐとの間の不仲を演出する必要があり、暴力によって因幡てゐが離反するという段取りを講じ、その時負って見せるケガを偽装ではなく本物の重症にしてしまい、その実行犯がそれを喜々として行った輝夜なのである。その件があったので、輝夜はてゐから避けられていると思い、心から詫びるつもりなど毛頭なかったが、一先ず下手に出てみる。
「どうしたら許してくれるの?と言うか何で私がおべっか遣わなきゃいけないのよ。全く!早く出てきなさいよ!出てこないともっとひどい事になるわよ!」
しかし、最後には本音が出ていまう。
主従関係にある以上、てゐは輝夜に何をされても我慢しなければならないが、てゐとしては従属はしていても隷属しているつもりはないし、同じペットであるレイセンより格上として扱われている。輝夜はともかく、八意永琳からは一目置かれているのだ。
「おーい!姫!姫!早く来て!」
その時、玄関の戸が勢いよく開く音がして、すぐに聞き慣れた因幡てゐの声が聞こえてきた。しかも、向こうからこちらの名前を呼んでいる。
姫を呼びつけるとは何事かと憤る輝夜だが、怪我をさせた手前もあり、ここはおとなしく呼ばれようと重い腰を上げる。
居間からそれなりの距離がある玄関までの長い廊下をゆっくりと向かう輝夜。何度かてゐに急かされるがその都度はいはいと応えて慌てず騒がずマイペースで歩く。
医療所の出入り口も兼ねる玄関から入ると向かって右が診療室で、正面と左側に長く廊下が伸びる。左側の廊下が外庭に面した長い縁側になっており、それに沿って何十畳もある広い複数の客間の先に普段皆が顔を会わせて過ごす居間がある。
輝夜は異変のただ中の桃色の空を時々立ち止まって目をやりながらてゐの元に向かう。いつも通りの輝夜の対応であるが、てゐは何度も何度も早く来いと叫んでいる様子から火急の用だと伺えるので、底意地悪く逆に歩みを遅らせる。
ようやく玄関にたどり着いた輝夜は、てゐが連れてきたと思われる汚らしい妖怪を見て、あからさまに面倒臭そうな顔をする。
「何これ、何でこんなもの拾ってくるのよ。」
その対応にムッとするてゐは、嫌みで返す。
「大怪我してるから、他人事と思えず連れてきたんだよ。」
レイセンとは違い、普段から輝夜と毒気を含んだ舌戦を平気でやるてゐ。
「そうきたか。」
てゐに対し若干後ろめたい気持ちがあった輝夜だが、そこは腐っても輝夜である。てゐの嫌みに更に嫌みで返す。
「で、何?自分でさすのは嫌だから私にトドメをさせっていうの?」
「ちがーう!」
プンプンと真剣に怒り出すてゐをなだめすかす様に、玄関向かって右側の許可無く入れない診療室の戸を開けやる察しの良い輝夜。彼女はぐうたらではあるが、決して愚鈍ではない。
戸を開けてもらったてゐはすぐに態度を代え、礼を言って僕の人型ウサギをつかって、見知らぬ妖怪を診療室のベッドに運び入れた。用事の済んだうさぎ達は元の姿にもどると診療所からわらわら走って出て行った。ただの野うさぎと違って彼等はて下僕として与えられた持ち場があるのである。
「どうするのそれ?身元不明の妖怪を勝手にベッドなんかに運んで、後で永琳に怒られても知らないわよ。」
「妹紅の家の近くに落ちてた。後々のことを考えると助けておいたほうがいいと思う。たぶん・・・。」
妹紅の名を聞いて不機嫌だった顔が更に不機嫌になる輝夜。舌打ちしてそのまま診療室から出ようとする。
永遠亭は今回の異変に関して藤原妹紅に全面協力すると決めた。輝夜としても妹紅に対する個人的な恨み辛みは一旦置いて協力しなければならない立場にある。しかし、積極的に協力する気など更々無い輝夜としては、この件にこれ以上関わりたくないので早々に退散を決める。
てゐは輝夜が去ろうとしている気配を背後で感じながら、応急手当をしようと教えられた通りに外傷箇所やその数の視診に入る。
目に見えてわかる大きな外傷が右腕で、肘のすぐ下から欠損してしまっている。問題は肉体が切断されているのではなく、明らかにその部分が人工的に作られた痕跡があり、その部分が機械的に破損しているということである。
体の複数箇所から出血した痕があるが、その腕の欠損によって出血した痕跡はない。肉体と機械の境界となる肘の下のつなぎ目部分に目立った大きな破損はなく、修理すれば直せそうである。しかし、それは医術の領分ではなく科学の領域で、てゐにどうこう出来るものではなかった。
高度な技術を持つ永遠亭という組織の中にいる所為か、機械的なものに対して免疫があるてゐは、この一部機械化された妖怪を見ても比較的冷静でいられた。しかも、機械といっても師匠である八意永琳の作るものとは比べものにならないほど稚拙なもので、あり合わせの材料と低い技術レベルによって作られたのだろうと容易に想像出来る為、尚更危機感を感じない。
「・・・む?」
しばらく、この改造妖怪に集中していたてゐだが、ふと、先程診療室を出ようとした輝夜が同じ場所に留まって動いていない事に気付いて変だと思い、作業を中断して振り向いた。そして、一部機械化された妖怪に対して驚きもしなかったてゐがそこで大いに驚いた。
「・・・何か用?異変が終わるまではそれぞれの時間軸を維持してないとだめでしょう?」
輝夜が診療所の入り口の向こうにいる何者かに問いかけているのをてゐは見た。そして、その相手とは複数名の蓬莱山輝夜の姿だったのである。
輝夜が複数の時間軸を形成し、平行世界毎にそれぞれ独立した複数の輝夜が存在していることを知っているてゐだが、診療室の開いた戸の向こうに夥しい数の蓬莱山輝夜を直接見るのは初めてで、頭で分かっていても実際にそれを見てしまうと面食らう。長く生きた妖怪は、危機的状況にも動じなくなるものだが、妖怪最長命の一人である因幡てゐもこれには流石に驚きを隠せなかった。
「・・・。」
輝夜の質問に即答しなかった他の輝夜達は、次の瞬間一つに糾合し、ここにいる輝夜は2人だけになった。
「ちょっ!これは、どういうこと?」
てゐは2人のやりとりを見ながら自分に背を向けている輝夜の衣服の裾を鷲掴みにする。そうしないと、自分の知っている自分達の姫個人を認識出来なくなってしまうと思ったからである。
「貴女も薄々気付いているでしょう?」
「何が?」
「貴女の受け持つこの世界は、特異的に分岐した超レアケースだってことを・・・よ。」
たくさんの輝夜が集合して一人になった代表者的な輝夜がてゐの存在を無視するように説明する。取るに足らない者としての無視というより、敢えてこの会話を傍聴させているともとれる。
無数に枝分かれした世界は、流動的な歴史の流れが落ち着いた段階で一つに集束してそれぞれの情報を統合し、その中の最良の結果を生み出した時間軸を本軸として選定し、それを起点に情報を並列化して再度分岐する。今、無数の輝夜が一つになったのは情報の統合が行われた事を意味し、てゐが掴んでいる輝夜だけがその情報の統合から漏れたわけである。
一人仲間外れにするということは、統合された情報からの隔離を意味し、だからこそてゐが掴んでいるこの世界の輝夜は怒って説明を求めたわけである。
「・・・なるほどね。この世界を隔離するのね。」
「貴女の永琳は完全にパラダイムシフトを起こしているわ。本来の姿に戻ったとしても、それは私達にとってそれは何ら役にならない。更に、これは恐らく彼女一人だけの問題では済まないはず。その影響は恐らく貴女にもこの世界にも及ぶわ。そんな異物を含んだまま貴女と情報を統合するのは危険よ。重大なバグとしてこのシステムを大きく狂わし、世界を変えてしまう可能性があるわ。それが如何に危険で許し難い事であるかは当然貴女にも理解出来るでしょう?」
ここで言う世界とは月の世界を中心にした世界の事であり、地上の世界にとって有益でも、月の世界に不利益となればそれは排除しなければならない案件だった。
「・・・それが蓬莱山輝夜の意思というのなら、従うのが蓬莱山輝夜としての使命ね。」
「流石私。話が早くて助かるわ。」
「まさか私がハズレを引くとは思ってもみなかったわ。」
「皆そうよ。自分のいる時間こそが最も優れていると思っているわ。まー『責任』から解放され、本当の自由を得られると前向きに考える事ね。これまでも、これからも、平行世界の袋小路は生まれ続けるわけだし。それに・・・。」
「最後になってこの世界こそが『アタリ』だった・・・ってこともあるかもしれないしね。」
「ふふ、そういうこと。では、ご機嫌よう。特別な永琳をよろしくね。」
そう言って、てゐがついていない方の蓬莱山輝夜は、ここで初めててゐに一瞥いれて診療所の扉から姿を消した。
「ひ、姫・・・様?」
「ふふ、これで、正真正銘の無職(ニート)ね。」
「それは、姫にとって良いことなの?」
横から話を聞くだけだと自分達の姫が仲間外れにされた様に見えるが、彼女達にしてみれば当然の合意として至極当たり前の事をしていただけにも見える。事情を中途半端に知っているせいで、これをどう判断していいのかてゐにもはっきりしない。レイセンならきっと、こっちの輝夜に同情し、あっちの輝夜にケチをつけるという単純な勘違いを犯して、かばった当人に逆にこっぴどく怒られていたことだろう。
「私達は世界を滅ぼさない様にするのが仕事。こうやって今までもイレギュラーを排除してきたのよ。これまでも、これからも。というか、何で泣いてるの?てゐ。」
「だって、なんか姫が仲間外れにされたみたいで・・・。」
一連のやりとりを見たてゐは、地上民の感覚で捉え輝夜にひどく同情していたのである。一方で月の御姫様にはそういった感情や感覚が理解できなった。やはり、別の世界の者同士なのである。
「あいつらの世界から隔離されたとしても、私自身の能力が消えるわけではないわ。逆に言えばこの私を起点にここから新しい世界と歴史の本筋が始まろうとしているのよ。ただ、あの永琳を基準にするという点で、あいつらとは全く違ったベクトルを持った世界が進み出しそうだけどね。」
「・・・そ、それは、喜んでもいいの?」
「ええ、これはある意味おめでたいことよ。公務から解放されて、晴れて完全無欠の無職になったんだから!」
ぱーっと表情が明るくなる輝夜とは裏腹に、複雑な表情になる因幡てゐ。
「・・・。」
てゐは、本当に嬉しそうにしている輝夜を見て、それが演技なのか本心なのか判断できなかった。人間なら相手に心配させないように強がって見せる下手な演技をしてみせるが、変化した永琳ならともかく目の前にいる宇宙人にはそんな殊勝な振る舞いなどできるはずもない。しかし、あの永琳を直に感じた今の輝夜なら或いは・・・と期待してしまう。
内心穏やかでは居られず、心の中では泣いているのかもしれないと、てゐは前向きに考える事にした。そして、今の輝夜なら苦戦を強いられているだろう永琳とレイセンの援軍として永遠亭から連れ出せるかもしれない・・・。
てゐは、あの妖怪と自分の怪我は一先ず置き、妹紅の異変を成功させる為、今少し働こうと決意した。
永遠亭に於いて重大な分岐が起きていた頃、時を同じくしてこの世とは違う別の場所で一人の少女が孤独と戦っていた。
ここは、あの世の一歩手前の『選択の間』である。
「畜生!何でだよ!」
白と黒と金色の少女が1人、思い通りにならない現状を罵りながら四つん這いになって床面を叩いている姿が遠くに見える。
藤原妹紅は火の鳥の傍を離れて、霧雨魔理沙のいる方へ向かって歩いていた。
気付かれない様に気配を消して忍び寄ったつもりはなかったが、そのすぐ後ろに立っても未だに魔理沙は妹紅の存在に気付く様子もない。ここに自分以外の何者も存在しないことは既に承知しているのだろう。だから、周囲に気を配るのは止めて床面に開いた穴にだけ意識を向けているのだ。気付かなくても仕方がないが、魔法使いの端くれなら、この状況にも冷静で、或いは興味を持って臨んで欲しいと、先程別れたばかりの魔理沙の母、サーヤとの歴然とした差を感じる妹紅。
「(しかし・・・)」
彼女が自分の意志とは裏腹にここに強制的に導かれた経緯を考えれば、過大な期待は酷というものだろう。少なくとも魔理沙は床面に開いた穴の向こう側で起こっている状況を、夢物語などではなく現在進行形で進んでいる現実だと捉えているだけで上出来と言えるだろう。どうにもならない自分に憤りを覚えているのは、現状を何とかしたいという気持ちの表れであり、普通の人はこの状況を見て自身の肉体を諦めて早々に黄泉路を辿る決断をするはずである。
そして、その決断を自発的に行い此岸に未練を残さず、死を円滑に行う様にするのが『選択の間』の役目なのである。
「・・・魔理沙。」
そんな魔理沙に妹紅は驚かせない様にそっと声をかけた。それを受けて身を強張らせた魔理沙は一寸キョロキョロするものの空耳だと判断したのか元の格好に戻り、先程と同じ動作を始める。
やれやれという仕草をした妹紅は、今度は大声で呼びかけた。
「おい!霧雨魔理沙!」
「おわっ!」
誰も居ないと決めつけ、先程の呼びかけも空耳と思い込んでいた魔理沙は、不意打ちを喰らって口から心臓が飛び出しそうな勢いで、文字通り飛び上がって驚き、その場に尻餅を突いて大の字に倒れた。
仰向けで真上を向いていた魔理沙は視線をやや頭の方に向けた。すると見覚えのある小柄なのにやたら表面積が広いシルエットが視界に逆さまに飛び込んで、更に驚いて立ち上がる。
「も、妹紅?」
「よう!」
妹紅は通りすがりの知人に気さくに声をかけるように右手を上げて、笑いを押し殺したぎこちない笑顔で挨拶する。
魔理沙は一瞬状況が掴めず頭を抱えて考えるポーズをしたまま固まってしまったが、順を追って頭の中を整理し、見知らぬ場所でのこの奇跡の様な再会が予め予定されていた必然であることを理解すると心の底から安堵し、肩の力が抜けて大きくため息がもれた。
この時の魔理沙は既に過去の封印されていた記憶を取り戻し、魅魔も含めて妹紅が全てを掌握して、この状況に自分を追いやった事を理解しており、つい先刻までそれを忘れていたが、今ようやく思い出したのだ。
魔理沙は安心して、自分より背の低い妹紅の両肩に手を乗せたままヘナヘナと腰砕けになってペタっと腰を落とした。
「どうした魔理沙?」
「いや、妹紅の顔を見たら、なんか安心して・・・。」
「安心するのはまだ早いんじゃない?」
「え?助けに来てくれたんじゃないのか?」
「ここは、『選択の間』と言って、生きるか死ぬかの選択をする場所よ。でも、一度死んだ人間はそう簡単に生き返れるものではないわ。」
「そ、そうなのか・・・。」
ほっと一安心した魔理沙の表情にまた陰りが出る。
「まず、本人が生きたいと望むかだけど。」
「そ、それなら私は!」
「落ち着いて魔理沙。」
妹紅は大人が若輩を諭す様に、指で床面を指しちゃんと座れと指図し、素直に従う魔理沙を見て、自らもそこにあぐらをかいた。
魔理沙はだらしなく落としていた腰を上げてその場にしゃんと正座している。霊夢やアリスに対する態度とは明らかに違う、目上に対する態度になっている。いい傾向といえる。
妹紅はこの現状に満足して、自分が今すべきことを行った。
「まずは、先に謝らせてほしい。」
「ちょ、待ってくれ私は別に・・・。」
頭を下げようとする妹紅を慌てて止めようとする魔理沙。
「魔理沙を殺してここに追いやったのは他でもない、私だ。」
傾きかけた頭を一度上げて相手の目を見て真剣な眼差しを向ける妹紅。
「うん、それは分かってる。魅魔様と連んで・・・でもそれは私にとっても魅魔様にとっても必要な事で・・・。」
「だからと言って殺した事実にかわりはないし、殺しを正当化する理由にしてはならない。」
妹紅はそう言って魔理沙に深々と頭を下げ、救済を目的としたとは言え、殺した事実に対し誠心誠意謝罪をする。
「頭を上げてくれ妹紅。元はといえば私が・・・私の所為なんだ。」
魔理沙はそこまで言って押し黙った。妹紅は魔理沙の雰囲気が変わったのを受けて頭を上げた。
「・・・魔理沙・・・。」
膝の上に置いた手を堅く握って肩を震わせうつむいている。後悔の念に苛まれているのだろうと容易に想像出来る。身から出た錆とはいえ、15に満たない少女が背負うには大き過ぎる過ちだった。
10歳にも満たない頃、霊夢が輿入れする神社に先回りした魔法少女魔理沙は、そこを管理していた大魔導師魅魔と運命的な出会いをする。その時、魅魔が追い払おうとして使った魔法に魅せられた魔理沙は、霊夢の輿入れを妨害するという当初の目的を忘れ、魅魔にしつこく師事を乞い正式に弟子として認められ、当時ホウキに乗って飛ぶくらいしか出来なかった魔理沙は魅魔の元で急成長した。しかし、急激に力をつけたことで増長してしまい、力に魅せられた危険な魔法使いになってしまう。
自分を甘やかす師匠を軽んじるようになった魔理沙は粗暴になり、実家に戻っても我が物顔に振る舞い父親と衝突。そしてとうとう勘当されてしまう。更に魅魔とも仲違いして、独り無謀な挑戦を繰り返すようになり、遂に近づくことを禁じられていた西洋墓地で英霊達を辱め逆襲に遭って命を落としてしまう。
この当時既に他界し娘の魔理沙の守護霊となっていたサーヤは、娘を殺した吸血鬼の英霊と賭をして魔理沙の死を保留させた。そこに火急を聞きつけた魅魔が駆けつけ死霊術をアレンジした転生術で魔理沙の肉体と魂を強制的に結びつけ条件付き蘇生に成功したのである。
しかし、死霊術によって復活した魔理沙は、魅魔の虜となって忠実に動く下僕となってしまい、生前の魔理沙ではなくなってしまったのである。
試行錯誤の末、魅魔が自ら魔理沙の肉体と魂を繋ぎとめる鎖となることを決意し、当時八雲紫不在の幻想郷の管理を任されていた魅魔は、復帰のタイミングを見計らって、下僕の魔理沙らを率いて封魔異変を起こし、博麗神社の巫女霊夢と戦って敗れ、死を偽装して魔理沙の中に隠れたのである。
霊夢と一戦交え敗れた魔理沙は、魅魔と引き替えに限りなく完全に近い不完全な復活を遂げた。そして、ネガティブな記憶を改竄された魔理沙は当たり前の様に霊夢の元に戻ったのである。
八雲紫をも凌ぎ、その抑止力とも言えた幻想郷の大賢者魅魔の変心と死は当時の幻想郷に大きな衝撃を与えたが、それ以上に脅威となったのは、若干10歳にして悪霊大魔導師を倒した博麗神社の巫女、霊夢の存在だった。
時の人となった博麗霊夢は、妖怪退治を生業とする巫女、正確には陰陽師として名声を上げ今に至っており、その周囲には常に白と黒の魔法使いを見るようになる。
魅魔は八雲紫が幻想郷に復帰するまで博麗神社と幻想郷の管理を任されており、霊夢が10歳になり神社に輿入れすれば、親代わりとなって霊夢の面倒を見るはずであった。しかし、その直前に魔理沙が魅魔の前に現れた事で全ての歯車が狂ってしまったのである。
その当時、霊夢の輿入れは上白沢慧音と妖酔直属の部下らの警護の下に行われたが、この時神社に魅魔は居なかったのである。慧音としては決して霊夢を置き去りにしたわけではなかったが、魔理沙の事件は全く知らず、大賢者がたまたま留守だったと思い込んで、特に形となって残さなければならない様な手続きもなかったのでそのまま霊夢を独り神社に置いてきてしまったのである。この事は慧音も後悔しており、その後何かと霊夢を気に掛けるが、霊夢はその当時の事をよく覚えていない。これは忘れたというより、思い出さない様にしていると捉えるべきだろう。
誰も居ない神社で独り寂しく数日過ごした10歳の霊夢は、後見人となる大賢者魅魔とようやく会う事が出来たが、出会った時から敵対的で、間もなく謀反が起こり封魔異変が勃発。霊夢はそこで変わり果てた幼馴染みと再会する。
家族にも等しい親友と謀反の首謀者魅魔を倒してしまった10歳の少女は心に大きな傷を負い、最後は結局独りになるなら誰とも関わらない交わらないという無常観に苛まれ、この歳にして悪い方に達観し世捨て人の様に外界と距離をとって生きる様になってしまったのである。
神様と人間の間を取り持つ神社の役目を霊夢が果たさなくなったことは、今回の異変にも間接的に影響していることは事実で、久々に誕生した巫女である霊夢の存在は、幻想郷においてとても重要な事だっただけに、この霊夢の悪い方への成長は、八雲紫などにとっても大誤算といえた。
同じ日に生まれ、同じ乳を飲んで育った2人の少女の運命の狂いは、幻想郷にとって大変な不幸だったのである。
正座したまま顔を強張らせ、後悔の念に押し潰されそうになっている魔理沙。
どんなに悔やんでも悔やみきれない。あの時ああしていればと思い当たる節が多すぎて後悔しか出てこない。霊夢と離れたくないという一心で、神社までたどり着いたのに、魅魔の魔法を見た瞬間その思いもどこかに吹き飛んで、霊夢の事が二の次になってしまった。薄情で身勝手で我が儘で無能だと自分を罵る。
そんな魔理沙を見て妹紅は立ち上がって、帽子のない金色の頭に優しく手を乗せ、ゆっくりと撫でた。
「なってしまったものはどうしようもない。私も何度も失敗して、その都度後悔ばかりだった・・・。」
妹紅は魔理沙を慰めると同時に自身の罪を省みる。死んで詫びる事も出来ず、ずっと自分を責めてきた。今の死んだ魔理沙を見るにつけ、死んでからも後悔するのだから、死んで詫びるなど単なる責任逃れなのだろうと、昔の自分の未熟さを思い返す。
「・・・妹紅。」
「ん?」
悔やみに悔やんで悔やみ抜いた魔理沙は暫くして意を決し顔を上げた。
「どうすればいい?どうすれば向こうに戻れる?」
魔理沙は方法はわからないが妹紅なら戻せる、向こうの世界へ帰れるという確信を持ちながら迫り、一刻も早くここから抜けだし、幻想郷に戻って蘇生の為に懸命に働いている知人達の元に帰りたいという気持ちを妹紅にぶつけた。
縁者として魔理沙の元に現れた妹紅にとって、魔理沙を帰す事はとても簡単な事だった。背中を押してその穴に魔理沙を落とせばいいのである。
この穴は、現世をのぞき見る為の窓ではなく、そこへ戻る通路の入り口である。しかし、自力でこの穴を抜ける事はできず、必ず他者の協力を得なければならない。その他者の存在を生前得られるか得られないかが、『選択の間』における生死の分かれ目なのである。
妹紅はその他者となる権利を得る為に、魔理沙を目にかけ、知識を与え、大切な道具も授けてきたのである。そして図らずも、魔理沙の母親の恩人となった事でその資格を十二分に得たのだ。
「・・・。」
懇願の眼差しですがるように妹紅を見上げる魔理沙。妹紅としては意地悪をする気など全くなかったが、今が魔理沙更正の絶好の機会とみて、直ぐに願望を叶える事はせず首を振って待ったをかけた。
「魔理沙、もし、お前が真っ当に生きてここに来てしまったのなら、ここには恐らくお前の母親や霧雨家のご先祖が現れているはずだ。」
妹紅は男口調になって厳しく諭し始める。
「お、お母さん?」
魔理沙は父親を「オヤジ」と呼ぶが、亡き母に対しては敬意と親しみを込めて「おかあさん」と呼ぶ。
「ここは肉親や親戚縁者、生前、特別な関係にあった生き物、大事にされて命を受けた付喪神しか来れない場所なんだ。」
それを聞いて魔理沙は、当たりをキョロキョロした。もしかしたら母親が居るかもしれないと思ったからである。
「何故ここにお前の母親ではなく私がいるのか、わかるか?」
「分からない・・・あ・・・いや・・・分かってる。」
魔理沙は咄嗟に分からないと言ってしまったが、直ぐに訂正した。
「お前が無謀な戦いを挑んで返り討ちにした連中に、お前の守護霊だった母が頼み込んで完全な死を保留してもらっていたんだ。その代償としてお前の母親はそいつらに魂を差し出してしまったんだ。お前の母親は既に跡形もない。」
最後の言葉は嘘だった。吸血鬼始祖の英霊達に認められた妹紅への報償代わりに魔理沙の母親は解放されて、先程まで一緒にいたのである。しかし、本来ならこのような幸運には恵まれず、一般論として妹紅の言葉は正しいといえた。
魔理沙は自分の失態で母親の守護霊が吸血鬼の英霊に囚われた事を朧気ながら覚えており、妹紅に言われて完全に思い出したのである。その後魅魔が来たのまでは覚えているが、死霊術を施されて『別人』になってからの記憶はない。
「おかしいと思わないか?」
母親まで殺してしまったと後悔の念が再びもたげてくる魔理沙に追い打ちをかけるように突然妹紅が疑問を投げかけるが、魔理沙にはその問いについて、何がおかしいのかが咄嗟に理解出来なかった。
自分の身代わりとなって母の魂が消滅したのは事実で受け入れがたい事ではあるが、それについては真実で何もおかしなところはない。
無理はなかった。死や死後の事など知識に明るい者ならすぐに気付くが、魔理沙はそれに関しては全くの無知だったからだ。
「おかしい?何が?」
魔理沙も不思議に思い戸惑いの表情を見せる。妹紅の顔が先程までと違って恐ろしくなっているのもあって不安が増幅する。何か重大な事を見逃しているのだろうか?
これは妹紅の演出でもあったが、ここからが大事なところなので強く印象づける必要があったのでわざわざ謎めいた言い方をしたのであった。
「お前は当時、父親から勘当され霧雨家の戸籍から離れている。今のお前は霧雨を名乗っているが、実家とは縁が切れ親戚縁者が誰も居ない孤独な存在だ。しかしあの時、お前が死んだ時、霧雨家の人間であるお前の母親の霊はお前の守護霊としてそこに居た。」
「!?」
魔理沙は嫌な予感と共に鳥肌がたった。
「お前の母親は、霧雨家の当主であるお前の父親の正式な妻として戸籍に入り鬼籍に着いた。霧雨家の人間として代々の墓に入っているはずだ。つまり、実の母子である事実にはかわりはないが、霧雨家を追放されたお前とは家系的には赤の他人と同じ状況になっていたんだ。」
「でも、それならなぜ?」
「お前にとって憎たらしい親父だろうが、彼はお前を勘当した後、愛娘がご先祖の加護を受けられない事を不憫に思い、妻の遺骨を墓から出して、霧雨家からお前と同じ様に追放し、霧雨家との縁を切るかわりに母子の縁を回復させ、お前の守護霊となれるように便宜を図ったんだ。つまり、お前の父親は母親と離婚したってことだ。」
これは先日森近霖之助から聞き出した真実である。
「んっ、な!」
「手の付けられない程、別人のように荒んだお前を見て、家や里に迷惑がかかるとの苦渋の決断だったことだろうよ。」
魔理沙は、吐き捨てるように言い放つ鬼の剣幕になっている妹紅の顔を直視出来ずにがっくりとその場に手をついてうなだれた。
自力で魔法を習得し、幼い頃から一端の口を利いて、父親に魔法使いとして認めさせようと必死だった魔理沙。魅魔から魔法を学び力を得て増長した幼い魔法使いは、真っ先に父親にその力を見せた。しかし、返ってきたのは鉄拳制裁で、当時の心も身体も未熟な魔理沙は、その愛の鞭の意味も理解出来ず反抗して余計に力に傾注していった。
何度も衝突し、その度に周囲に迷惑をかけ、それを反省しない人間性を失いかけた娘の変貌ぶりに父は遂に匙を投げ、勘当を申し渡したのである。
「子供を愛さない親はいない。この父親の身を切る正しい判断がなかったら、お前の母親はお前の守護霊になれず、魔理沙はあのまま死んでしまったんだ。そうなれば大切なものを失った悪霊がその後どうなったかはお前にも想像できるだろう。かもすれば幻想郷は滅んでいたかもしれないんだ。」
重い鈍器で後頭部を思い切り殴られ、そのまま押さえ込まれた様に魔理沙の頭は漆黒の床面に張り付いて離れなかった。
父親の事はこれまであまり気にしていなかった。勘当といっても家出したようなもので、そのうち帰れるだろうと気楽に思っていた。勘当された当時は父親を憎悪していたが、今となってはどうでもよく感じていた。しかし、思いの外事は重大で、あれだけ愚弄した父親が自分を守る為に身を切っていたことを聞かされ、父の偉大さと更なる後悔の念が膨れあがっていた。
「どこまで私はバカなんだ・・・。」
魔理沙はその場で頭を大きく上げて床面に打ち付けた。しかし、全く痛くなかった。
「ここでは肉体は存在しない。ここでの自傷行為は意味がない。」
妹紅は冷たく言い放つ。苦しみを痛みに代えて誤魔化す事はここでは出来ないのである。
「起こってしまった事をここで後悔してもしようがない。反省の仕草だけなら妖精にも出来る。」
「じゃー私はどうすれば?」
悲しいのに涙が出ない悲痛な表情の魔理沙が妹紅に追いすがる。
「人間になれ魔理沙。生き物としての人間ではなく、歴史を持った正真正銘の人間にだ。」
「にんげん?」
「父親に謝罪し、母子共々霧雨家に戻してもらうんだ。お前はともかく、形式だけでもそうしてやらないと、母親は浮かばれないし、父親の心の痛みも消えないだろう?」
それを聞いて魔理沙ははっとなった。そして、出なかった涙が溢れてきた。
「形式上ではなく、本当の復縁はそう簡単なものではない。何年かかってもいいから、お前が生きている間に絶対に霧雨家と復縁するんだ。約束するならお前を向こうに帰してやる。」
泣きじゃくる魔理沙は、返事が上手く出来ずうんうんと何度も頷いて、妹紅との約束を誓う。
妹紅はここでの出来事は向こうに帰ってしまえば全て綺麗さっぱり忘れてしまうことを知っていた。しかし、今ここで起こった事を心の痛みとして魂に刻み込んでおけば、無意識にそう動くはずである。絶対ではないが、妹紅は魔理沙を信じた。必ず今言った事を実行してくれると。
そして妹紅はそうなる為に魔理沙の魂に一つの刻印を植え付けようとする。
「魔理沙、一つ賭をするか。」
「え?か、賭?」
思いがけない妹紅の申し出に戸惑う魔理沙。その表情が先程と違って砕けていたので少し安心する。
「前々から考えていたんだ。せっかく『選択の間』に来れたんだからしばらく休もうってね。」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
「なぁに、お前がすぐに復縁すればいいだけの話さ。そうだな、復縁に10年以上かかる方に私は賭けよう。お前は10年以内に復縁出来る方に賭けろ。」
「何だよそれ!わけわかんねーよ!だいたい賭けって言うけど、何を賭ければいいんだよ!」
「そんなのお前の未来に決まってるだろ。私が勝てば少なくとも10年分休める。そして、お前は10年以上悶々と過ごす事になる。口で言うのは容易いが定命の人間が10年分無為に過ごすのは大きいぞ。でも、お前が直ぐに復縁できれば、それだけ沢山の明るい未来が待っているし、私は休む間もなく直ぐに幻想郷に復帰してしまいサボれない。」
記憶とは一見すると人が触れる事の出来ない無形の存在に感じるが、脳の記憶を司る部位に直接書き込まれる物理的な現象である。だからこそ、記憶を改竄したりすげ替えたり消したりも出来る。精神と魂だけのこの世界で経験したことは、それを書き留める物理的な媒体が存在しないので、無かった事にされる。しかし、強く印象に残った想い出は魂に刻むことが出来る。この魂の記憶は都合良く忘れたり思い出したりは出来ず、人生に於いて行動や思考に絶えず干渉し、時には危険を回避する一瞬の判断や、正しい答えを導き出す第六感となるのである。
輪廻を巡る間に沢山の経験を積んだ高い位の魂を持って生まれた者は、様々な場面で魂の記憶に突き動かされ無意識に正しい選択をして大成していくのである。
全てを忘れてしまうだろう魔理沙だが、ここで賭をした経験は魂に刻まれ、異変終結後も幻想郷に復帰してこない妹紅を疑問に思い日々悶々と過ごすことだろう。そして無意識に自身の魂に問いかけ、問題の解決を探ろうと突き動かされるのだ。
「そんなの私が勝つに決まってるじゃん!」
賭け事が嫌いではない魔理沙は直ぐにのってくる。
「言ったな。ならば賭けに乗ると宣言しろ。」
「分かった。その賭け乗った!直ぐに妹紅を幻想郷に復帰させてサボらせないからな!」
魔理沙は元気を取り戻し、いつもの様にニヤリと笑ってみせる。妹紅はそれを見て安心し肩の荷が下りた心境になり、帰り支度をするために床面の穴に移動する。状況が次の段階に移行したと察知した魔理沙もそれに倣う。
先程魔理沙に声を掛ける時、こっそり穴を覗いて見た時は、魔理沙蘇生現場に焦燥感が表れていたものの蘇生活動は懸命に続けられている最中だった。そこから更に時間が経って、どのように変化したのか興味がある。
まるで他人事の様だが、永遠亭が率先して蘇生活動を進めているのを確認した後だったので妹紅には妙な安心感があった。
妹紅は、具体的に何をどうしろと頼んだわけではなかったが、メッセージを正しく受信してそれを忠実に実行しているレイセンを見て満足そうに頷く。しかし、現場では色々な意味での限界が来ている様で、特に肉体的な疲労に伴うモチベーションの低下が深刻になっていた。
「・・・まずいな・・・ん?」
そろそろ魔理沙の中身を返してやらないと手遅れになる時間帯だったが、ここで思わぬ来訪者を目にする。これは妹紅にとって全くの想定外、青天の霹靂だった。
「(おいおい、マジかよ!)」
「あれって、月のお姫様だよな?」
魔理沙もその意外な顔に驚きと戸惑いを覚える。
妹紅は、この期に及んで妨害工作はないだろうと思ったが、危険な気配を感じ魔理沙の腕を掴んでいつでも帰れる準備をして様子を伺った。
全てが妹紅の思い通りに進む異変におけるこの意外な来訪者の登場は、今後の展開を占う意味で重大な分岐点といえた。